<慶一>
夕方近くなって店が混みだし、俺は忙しくなって雑多なことはとりあえず心から追い出した。
そういう切り替えが利くってことは、まだそれほど俺は恋に狂っている訳ではなかったのだろう。
とにかく、目の前のことに集中し出したとき、不意に、裏の扉を小さくノックする音が聞こえた。俺は一瞬、業者さんが来たのかと思った。
「は~い、開いてるよ。入って。」
鍋を火にかけたままだったので、俺は声だけで返事をし、今日は何が届く日だっけ?どこに置いてもらおうか?と思案する。麺類は月曜日の納品だし、あれ?何を注文してたっけ?とそっと扉の開いた気配に振り返って、俺は瞬間、そこに立っているのがさらだと気付かなかった。
いや、目は彼女の姿を捉えていたのに、脳が納得していなかったというのか。
正直、彼女が来るとは信じていなかったのだ。
「あの…、お手伝いに…」
どこか、おどおどとした彼女の様子に俺ははっと我に返る。
「ありがとう。来てくれたんだ。」
彼女の手には小さな手提げがあり、ちらりと見えたその中にはエプロンが入っていた。
「助かるよ、ちょうど今忙しくなってきて、段々、洗い物に手がまわらなくなってきてたんだ。」
俺がそう言うとさらは頬を染めて嬉しそうな目をした。そして、手提げバッグから真っ白なエプロンを取り出し、すぐに作業に取り掛かってくれる。一通りのことをこなした彼女は、もう何も説明しなくても淡々と作業に入った。
俺はその様子をひどくどぎまぎして見つめ、視線を戻して一息つくと、その日一番力を入れていたスープの塩加減に魂を入れた。
<さら>
また明日手伝ってくれると嬉しいんだけど、とマスターは言った。
だけど、本当にそう思ってくれているんだろうか?私をかわいそうに思って言ってくれたに過ぎないのかもしれない。
もし、本気にしてまた行って、あれ、どうしたの?って驚かれたら…どうしよう?
冗談だったのに、って言われたら。
私は朝からそんなことばっかり考えていて、薫が、彼氏に会いに出かける後ろ姿を窓からぼんやり見送りながら悶々としていた。
でも、会いたかった。
マスターが笑う顔を見たかった。そばに行って、彼の声を聞きたかった。
そして、ふと、思い出した。本当に唐突に。
‘だったら、俺の部屋に来る?ま、でもその場合、襲われるのを覚悟の上ってことになるけど。’
そう言って笑ったマスターの顔を。笑顔は柔らかくて、普通に話しているときと変わらなかったけど、そう言ったマスターの目が、ほんの少し怖かった。どうしてだろう?
次の瞬間、私はふるふると首を振った。
べ…別に、それを期待してるんじゃ、ないもん。
だって、マスターは仕事を手伝って欲しいって言っただけだし、店に行くだけで、部屋に呼ばれたわけじゃないし。
そう思いながら、ふと鏡を見ると、私の頬は真っ赤で、それに気付いたら、私は益々かああっと頬に熱を感じてしまった。
そうやって、まったく落ち着かない時間を過ごし、そのそわそわした情動に耐え切れなくなって、もう、何を言われても、驚いた顔をされても良い、だって、私は手伝いたい、そう決めた。
夕方近くなって、手提げにエプロンとハンドクリームと財布だけを入れ、私は慌てて家を出た。
☆☆☆
「さらちゃんの処女、もらっちゃったね。」
耳元でささやかれる慶一の言葉に、放心状態だったさらは、意図せずかあぁっと頬が火照るのを感じた。
そ…そうか。そうなのか…。
さらは、ようやく言われた意味、自分の身に起こったことを理解する。
全然、イヤだとは思わなかった。ただ、何か軽いショックを受けていた。そういうことはもっと先…そう、結婚する相手とだけするものだと、さらは思っていたのだ。
「短大卒業したら、俺のとこにお嫁にこない?」
「…え?」
慶一は、まだ少し固まったままのさらの目を優しく覗きこむ。
さらは、言われた意味を呑み込むまで数秒を要した。そして、それがプロポーズだと気付いてからも、まったく信じられなくて、茫然と慶一を見上げてしまった。
「シャワー浴びてこようか?」
慶一は笑って身体を起こす。
「えっ?」
「汗かいたし、シーツも取り替えるから。」
さらはふわりと慶一に抱き起こされて慌てる。思わず掴もうとした毛布をするりと外されて、彼女は小さく悲鳴をあげた。
「バスタオルは用意しておくから、先に浴びておいで。俺はこっちを片付けておくから。」
さらは声もなく、こくこく頷いて、慌ててバスルームに駆け込む。その視界の隅に、慶一の手の中の白いシーツが写り、赤い染みのようなものが見えた気がした。
夕方近くなって店が混みだし、俺は忙しくなって雑多なことはとりあえず心から追い出した。
そういう切り替えが利くってことは、まだそれほど俺は恋に狂っている訳ではなかったのだろう。
とにかく、目の前のことに集中し出したとき、不意に、裏の扉を小さくノックする音が聞こえた。俺は一瞬、業者さんが来たのかと思った。
「は~い、開いてるよ。入って。」
鍋を火にかけたままだったので、俺は声だけで返事をし、今日は何が届く日だっけ?どこに置いてもらおうか?と思案する。麺類は月曜日の納品だし、あれ?何を注文してたっけ?とそっと扉の開いた気配に振り返って、俺は瞬間、そこに立っているのがさらだと気付かなかった。
いや、目は彼女の姿を捉えていたのに、脳が納得していなかったというのか。
正直、彼女が来るとは信じていなかったのだ。
「あの…、お手伝いに…」
どこか、おどおどとした彼女の様子に俺ははっと我に返る。
「ありがとう。来てくれたんだ。」
彼女の手には小さな手提げがあり、ちらりと見えたその中にはエプロンが入っていた。
「助かるよ、ちょうど今忙しくなってきて、段々、洗い物に手がまわらなくなってきてたんだ。」
俺がそう言うとさらは頬を染めて嬉しそうな目をした。そして、手提げバッグから真っ白なエプロンを取り出し、すぐに作業に取り掛かってくれる。一通りのことをこなした彼女は、もう何も説明しなくても淡々と作業に入った。
俺はその様子をひどくどぎまぎして見つめ、視線を戻して一息つくと、その日一番力を入れていたスープの塩加減に魂を入れた。
<さら>
また明日手伝ってくれると嬉しいんだけど、とマスターは言った。
だけど、本当にそう思ってくれているんだろうか?私をかわいそうに思って言ってくれたに過ぎないのかもしれない。
もし、本気にしてまた行って、あれ、どうしたの?って驚かれたら…どうしよう?
冗談だったのに、って言われたら。
私は朝からそんなことばっかり考えていて、薫が、彼氏に会いに出かける後ろ姿を窓からぼんやり見送りながら悶々としていた。
でも、会いたかった。
マスターが笑う顔を見たかった。そばに行って、彼の声を聞きたかった。
そして、ふと、思い出した。本当に唐突に。
‘だったら、俺の部屋に来る?ま、でもその場合、襲われるのを覚悟の上ってことになるけど。’
そう言って笑ったマスターの顔を。笑顔は柔らかくて、普通に話しているときと変わらなかったけど、そう言ったマスターの目が、ほんの少し怖かった。どうしてだろう?
次の瞬間、私はふるふると首を振った。
べ…別に、それを期待してるんじゃ、ないもん。
だって、マスターは仕事を手伝って欲しいって言っただけだし、店に行くだけで、部屋に呼ばれたわけじゃないし。
そう思いながら、ふと鏡を見ると、私の頬は真っ赤で、それに気付いたら、私は益々かああっと頬に熱を感じてしまった。
そうやって、まったく落ち着かない時間を過ごし、そのそわそわした情動に耐え切れなくなって、もう、何を言われても、驚いた顔をされても良い、だって、私は手伝いたい、そう決めた。
夕方近くなって、手提げにエプロンとハンドクリームと財布だけを入れ、私は慌てて家を出た。
☆☆☆
「さらちゃんの処女、もらっちゃったね。」
耳元でささやかれる慶一の言葉に、放心状態だったさらは、意図せずかあぁっと頬が火照るのを感じた。
そ…そうか。そうなのか…。
さらは、ようやく言われた意味、自分の身に起こったことを理解する。
全然、イヤだとは思わなかった。ただ、何か軽いショックを受けていた。そういうことはもっと先…そう、結婚する相手とだけするものだと、さらは思っていたのだ。
「短大卒業したら、俺のとこにお嫁にこない?」
「…え?」
慶一は、まだ少し固まったままのさらの目を優しく覗きこむ。
さらは、言われた意味を呑み込むまで数秒を要した。そして、それがプロポーズだと気付いてからも、まったく信じられなくて、茫然と慶一を見上げてしまった。
「シャワー浴びてこようか?」
慶一は笑って身体を起こす。
「えっ?」
「汗かいたし、シーツも取り替えるから。」
さらはふわりと慶一に抱き起こされて慌てる。思わず掴もうとした毛布をするりと外されて、彼女は小さく悲鳴をあげた。
「バスタオルは用意しておくから、先に浴びておいで。俺はこっちを片付けておくから。」
さらは声もなく、こくこく頷いて、慌ててバスルームに駆け込む。その視界の隅に、慶一の手の中の白いシーツが写り、赤い染みのようなものが見えた気がした。
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