そう。
思い返せば、万理男は一度も「愛している」とも「好きだ」とも言ってはくれなかった。それだけはどんなにせがんでも言ってくれなかった。
一度、優奈が聞いたから答えただけだ。好きか嫌いかといったら、好きだよ、と。だけど、それは愛でも恋でもない。単なる好き嫌いを答えたに過ぎない。あのときはそれに気付かなかった。何故なら、優奈も思い込もうとしていたからだ。ただひたすら必死に。
ああいう状況になることがなければ、自分だって万理男を、大勢の中から一人の男として選んだかどうかなんて分からない。
そう。万理男自身が言っていたではないか。
そう思い込んでいるだけだよ、と。
その方が楽だから・・・と。
冷静になって、そして、外からあの状況を見れば、分かってきた。
そこに、‘愛’なんてなかったのだ。お互いに、その方が楽だから、出来ることを一生懸命していただけ。生きていくために順応しようとしていただけ。
ひどい・・・。
ひどい。
ひどいよ、マリっ
憎しみで心が張り裂けそうだった。苦しくて、辛くて、叫びたかった。
お腹の中で、マリの命が蠢く。
ああ、この子も苦しいのだろうか?
もう、早く楽になろうね。
もう、何もかも忘れてしまおうね・・・。
手術前の最後の超音波検査で、若い男性の医師が感嘆の声をあげた。
「おや、双子ですね!」
えっ?と優奈の心に何かが引っ掛かった。
「双子?」
「そうです。ほら、二人見えるでしょう?元気に動いてますよ。」
これから堕胎することを知ってか知らずか、その医師はそう言って、優奈に映像を見せてくれた。或いは、産科医の彼は思い留まって欲しかったのかも知れない。堕胎とは、つまり殺人なのだから。
「・・・やめます。」
「は?」
「手術、やめます。」
優奈は、相手の返事を待たずに、そそくさと衣服を直して、立ち上がった。
「あ、ちょっと・・・」
慌てる医師を尻目に、優奈はそのまま、待合室を駆け抜け、そこに待っていた母親は、え?という表情で娘を見送り、そして、急いでその後を追いかける。
「優奈っ・・・どうしたの?そっちは出口よ。」
優奈は振り返りもせず、走り続ける。
「優奈っ」
やっと、病院の玄関の外で追いついた母親が娘の肩を抱く。
「・・・いったい・・・どうしたの?」
はあはあと二人で息を切らしたまま、母子はその場に佇んだ。
「もう・・・良い。」
「何が?」
「・・・お母さん、私、もう良い。」
「だから、何が?」
「殺すときは、私も一緒に死ぬ。」
「・・・えっ???」
優奈自身、何を言っているのか実はよく分かっていなかった。だけど、それは、胎児のことと共に、万理男に対して言った言葉だった。
‘私を捨てるなら、彼を殺して一緒に死ぬ’
何故、そんな風に思ったのか分からない。
愛だと信じていた、裏切られた幻想の正体を見たとき、優奈の心に残ったのは深い絶望と共に暗い‘憎しみ’だった。どこから湧き出るのか分からない。そのどす黒い感情は、明るく素直なだけだった優奈の心を侵食していったのだ。
以後、優奈は堕胎手術を頑として拒絶した。
生むとは一言も言わなかった。
生んで育てるという未来は、そのとき、優奈の選択肢の中にはなかった。では、どうするのか?そんなこと、優奈にも分からなかった。ただ、今はまだ殺さない。そんな思いだけだったのだ。
いずれ、母親が死んでしまえば胎児も生き続けることなど出来ない。
万理男の兄が、執拗に望んだ子ども。
あの双子は、きっと優奈の中に双子がいることを知ったら、その子を欲しがるだろう。そのときこそ、その子ども達を道連れに死んでやる。
「一緒に逝くまで、待ってね・・・。」
優奈は、お腹に手を当てて、そうささやく。
「お前達だけ先に逝かせたりしないから、大丈夫。」
だって、この子たちは‘マリ’の子なんだもの。
そう心で呟いて顔をあげた優奈の表情は虚ろに歪み、その瞳にはうっとりとした光を宿していた。
母親は胎児を抱く。大気が地球を抱くように。殺すも生かすも母親の心ひとつだ。抱いている命を消すことは、自らも滅びることだと知りながら。
思い返せば、万理男は一度も「愛している」とも「好きだ」とも言ってはくれなかった。それだけはどんなにせがんでも言ってくれなかった。
一度、優奈が聞いたから答えただけだ。好きか嫌いかといったら、好きだよ、と。だけど、それは愛でも恋でもない。単なる好き嫌いを答えたに過ぎない。あのときはそれに気付かなかった。何故なら、優奈も思い込もうとしていたからだ。ただひたすら必死に。
ああいう状況になることがなければ、自分だって万理男を、大勢の中から一人の男として選んだかどうかなんて分からない。
そう。万理男自身が言っていたではないか。
そう思い込んでいるだけだよ、と。
その方が楽だから・・・と。
冷静になって、そして、外からあの状況を見れば、分かってきた。
そこに、‘愛’なんてなかったのだ。お互いに、その方が楽だから、出来ることを一生懸命していただけ。生きていくために順応しようとしていただけ。
ひどい・・・。
ひどい。
ひどいよ、マリっ
憎しみで心が張り裂けそうだった。苦しくて、辛くて、叫びたかった。
お腹の中で、マリの命が蠢く。
ああ、この子も苦しいのだろうか?
もう、早く楽になろうね。
もう、何もかも忘れてしまおうね・・・。
手術前の最後の超音波検査で、若い男性の医師が感嘆の声をあげた。
「おや、双子ですね!」
えっ?と優奈の心に何かが引っ掛かった。
「双子?」
「そうです。ほら、二人見えるでしょう?元気に動いてますよ。」
これから堕胎することを知ってか知らずか、その医師はそう言って、優奈に映像を見せてくれた。或いは、産科医の彼は思い留まって欲しかったのかも知れない。堕胎とは、つまり殺人なのだから。
「・・・やめます。」
「は?」
「手術、やめます。」
優奈は、相手の返事を待たずに、そそくさと衣服を直して、立ち上がった。
「あ、ちょっと・・・」
慌てる医師を尻目に、優奈はそのまま、待合室を駆け抜け、そこに待っていた母親は、え?という表情で娘を見送り、そして、急いでその後を追いかける。
「優奈っ・・・どうしたの?そっちは出口よ。」
優奈は振り返りもせず、走り続ける。
「優奈っ」
やっと、病院の玄関の外で追いついた母親が娘の肩を抱く。
「・・・いったい・・・どうしたの?」
はあはあと二人で息を切らしたまま、母子はその場に佇んだ。
「もう・・・良い。」
「何が?」
「・・・お母さん、私、もう良い。」
「だから、何が?」
「殺すときは、私も一緒に死ぬ。」
「・・・えっ???」
優奈自身、何を言っているのか実はよく分かっていなかった。だけど、それは、胎児のことと共に、万理男に対して言った言葉だった。
‘私を捨てるなら、彼を殺して一緒に死ぬ’
何故、そんな風に思ったのか分からない。
愛だと信じていた、裏切られた幻想の正体を見たとき、優奈の心に残ったのは深い絶望と共に暗い‘憎しみ’だった。どこから湧き出るのか分からない。そのどす黒い感情は、明るく素直なだけだった優奈の心を侵食していったのだ。
以後、優奈は堕胎手術を頑として拒絶した。
生むとは一言も言わなかった。
生んで育てるという未来は、そのとき、優奈の選択肢の中にはなかった。では、どうするのか?そんなこと、優奈にも分からなかった。ただ、今はまだ殺さない。そんな思いだけだったのだ。
いずれ、母親が死んでしまえば胎児も生き続けることなど出来ない。
万理男の兄が、執拗に望んだ子ども。
あの双子は、きっと優奈の中に双子がいることを知ったら、その子を欲しがるだろう。そのときこそ、その子ども達を道連れに死んでやる。
「一緒に逝くまで、待ってね・・・。」
優奈は、お腹に手を当てて、そうささやく。
「お前達だけ先に逝かせたりしないから、大丈夫。」
だって、この子たちは‘マリ’の子なんだもの。
そう心で呟いて顔をあげた優奈の表情は虚ろに歪み、その瞳にはうっとりとした光を宿していた。
母親は胎児を抱く。大気が地球を抱くように。殺すも生かすも母親の心ひとつだ。抱いている命を消すことは、自らも滅びることだと知りながら。
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