次第に夕闇が辺りを包み込み、二人のシルエットも曖昧にしていく。
そのまま、固く抱きしめあった二人は、離れることに怯えるように、夕闇にただ溶けていた。
「連れて行って・・・。」
澪は小さな声で呟く。
「このまま、私を連れて行ってください!」
叫ぶこと自体、彼女にはもう辛かった。肩で息をして、それでも必死に柊の胸にしがみつく。
そう、したかった。
澪の顔を見て、諦めるつもりだった彼は、顔を見た途端、やはりどうしても諦めきれない想いを確認する。一緒に行きたいと訴える彼女に、想いは同じだったのだと知った。
幸せにしたかった。一緒に幸せになりたかった。‘死’という永遠の腕(かいな)に絡めとられる前に。
しかし、このまま澪を連れ去っても、柊が今の仕事を続ける限り、すぐに居所は知れるだろう。そして、連れ戻された澪には、もっと悲惨な檻が用意されるだけだ。
「また、会いに来るよ、澪ちゃん・・・。もう少し待って欲しい。」
苦しそうに柊は呻く。
「イヤです。・・・もう、私はここでは生きてはおりません。ここに、澪の心はありません。どうか、身体もあなたのところに連れ帰ってください。」
柊は、澪の細い身体を強く抱きしめた。一緒に暮らしていたとき、彼女の身体はこんなに病的なまでに痩せてはいなかったはずだと彼は思う。
あのとき、彼女はとにかく生きてここを出るのだ、という意識で彼の与える食事はきちんと取っていたし、そして、自分で調理をし出してからは、楽しそうにむしろたくさん食べるようになっていた。
不意に輝きだした彼女の内なる光に、彼は目を見張ったのだ。その、生命のきらめきに。‘喜び’と‘生きがい’を見つけた人の豹変の様を。それが、彼に、目を覚まさせたのだ。妹の声が届くきっかけになったのだ。
「澪ちゃん、ごめん。俺が君をこんな風にしてしまったんだね。幸せだった君の生活を壊してしまったんだね。」
「違います・・・。」
澪は、彼の胸に顔をうずめたまま、そっと言った。
「違います。・・・フユキ、私はただ気付いてしまっただけです。自分がいる位置に。自分が信じていた世界の虚構に。・・・そして、自分が単なる世間知らずの小娘だったと知りました。」
澪は、言いながら知ったのだ。それまで思考として明確に意識にのぼらなかった真実を。
「私は、自分がどう生きたいのかなんて、考えたことがありませんでした。すべて、親の言う通り生きてきました。それを、あなたに出会って初めて真剣に考える機会を与えられたんです。・・・私は、初めて誰かに‘ありがとう’と言われる喜びを知りました。必要とされる喜びを知りました。・・・私は、・・・私は、あなたの傍にいたいのです・・・。」
涙が零れていた。それでも、彼女はしっかりと言葉を選んで自分の想いを伝えきった。伝える言葉が、そのまま自分自身に聞かせている言葉でもあった。それまで、考えないようにしていた心の内の叫びを。
「うん。・・・君は、本当に聡明で強い子だ。俺はそれがとても眩しかった。闇を照らされているようで、落ち着かなかった。だけど、同時に、本当に心地良かったんだ。」
「抱いて・・・」
澪は、言った。
「抱いて、ください。」
「・・・ここで?」
澪は頷く。家の中で、汚らわしいこの家の中で柊に抱かれるのはイヤだった。それくらいなら、外での方がどれだけマシか知れない。
しかし、澪は立っているのがやっとの状態だった。
むしろ、セックスが可能かどうかすら怪しいくらい弱っているように見えた。
闇が辺りを包み始めていたが、低い生垣は二人を隠してくれるには不十分に思えた。通りには、車だけでなく時折人影が見える。
それでも。
もう、このまま離れたら会えなくなるような恐ろしい予感に怯えて、二人は庭の芝生の上で抱き合った。
深い口づけを交わし、すぐに身体をつないだ。
澪の身体はすぐに彼を受け入れたのだが、彼女はそのとき、どこかおかしかった。ただひたすら深いつながりを欲しがり、激しく柊を求めた。
「澪ちゃん・・・?」
「イヤ。フユキ・・・やめたらイヤです。もっと、・・・もっと、きつく抱いて。離さないで・・・」
虚ろでいながら、熱に浮かされたようにあまりに必死な瞳だった。
「澪ちゃん、必ず迎えに来るから。」
柊は、そう耳元で繰り返す。
しかし、澪の心にその言葉が届いていたのかは分からない。微笑んだまま、澪は彼の腕の中ですうっと眠りに落ちていったのだ。
そのまま、固く抱きしめあった二人は、離れることに怯えるように、夕闇にただ溶けていた。
「連れて行って・・・。」
澪は小さな声で呟く。
「このまま、私を連れて行ってください!」
叫ぶこと自体、彼女にはもう辛かった。肩で息をして、それでも必死に柊の胸にしがみつく。
そう、したかった。
澪の顔を見て、諦めるつもりだった彼は、顔を見た途端、やはりどうしても諦めきれない想いを確認する。一緒に行きたいと訴える彼女に、想いは同じだったのだと知った。
幸せにしたかった。一緒に幸せになりたかった。‘死’という永遠の腕(かいな)に絡めとられる前に。
しかし、このまま澪を連れ去っても、柊が今の仕事を続ける限り、すぐに居所は知れるだろう。そして、連れ戻された澪には、もっと悲惨な檻が用意されるだけだ。
「また、会いに来るよ、澪ちゃん・・・。もう少し待って欲しい。」
苦しそうに柊は呻く。
「イヤです。・・・もう、私はここでは生きてはおりません。ここに、澪の心はありません。どうか、身体もあなたのところに連れ帰ってください。」
柊は、澪の細い身体を強く抱きしめた。一緒に暮らしていたとき、彼女の身体はこんなに病的なまでに痩せてはいなかったはずだと彼は思う。
あのとき、彼女はとにかく生きてここを出るのだ、という意識で彼の与える食事はきちんと取っていたし、そして、自分で調理をし出してからは、楽しそうにむしろたくさん食べるようになっていた。
不意に輝きだした彼女の内なる光に、彼は目を見張ったのだ。その、生命のきらめきに。‘喜び’と‘生きがい’を見つけた人の豹変の様を。それが、彼に、目を覚まさせたのだ。妹の声が届くきっかけになったのだ。
「澪ちゃん、ごめん。俺が君をこんな風にしてしまったんだね。幸せだった君の生活を壊してしまったんだね。」
「違います・・・。」
澪は、彼の胸に顔をうずめたまま、そっと言った。
「違います。・・・フユキ、私はただ気付いてしまっただけです。自分がいる位置に。自分が信じていた世界の虚構に。・・・そして、自分が単なる世間知らずの小娘だったと知りました。」
澪は、言いながら知ったのだ。それまで思考として明確に意識にのぼらなかった真実を。
「私は、自分がどう生きたいのかなんて、考えたことがありませんでした。すべて、親の言う通り生きてきました。それを、あなたに出会って初めて真剣に考える機会を与えられたんです。・・・私は、初めて誰かに‘ありがとう’と言われる喜びを知りました。必要とされる喜びを知りました。・・・私は、・・・私は、あなたの傍にいたいのです・・・。」
涙が零れていた。それでも、彼女はしっかりと言葉を選んで自分の想いを伝えきった。伝える言葉が、そのまま自分自身に聞かせている言葉でもあった。それまで、考えないようにしていた心の内の叫びを。
「うん。・・・君は、本当に聡明で強い子だ。俺はそれがとても眩しかった。闇を照らされているようで、落ち着かなかった。だけど、同時に、本当に心地良かったんだ。」
「抱いて・・・」
澪は、言った。
「抱いて、ください。」
「・・・ここで?」
澪は頷く。家の中で、汚らわしいこの家の中で柊に抱かれるのはイヤだった。それくらいなら、外での方がどれだけマシか知れない。
しかし、澪は立っているのがやっとの状態だった。
むしろ、セックスが可能かどうかすら怪しいくらい弱っているように見えた。
闇が辺りを包み始めていたが、低い生垣は二人を隠してくれるには不十分に思えた。通りには、車だけでなく時折人影が見える。
それでも。
もう、このまま離れたら会えなくなるような恐ろしい予感に怯えて、二人は庭の芝生の上で抱き合った。
深い口づけを交わし、すぐに身体をつないだ。
澪の身体はすぐに彼を受け入れたのだが、彼女はそのとき、どこかおかしかった。ただひたすら深いつながりを欲しがり、激しく柊を求めた。
「澪ちゃん・・・?」
「イヤ。フユキ・・・やめたらイヤです。もっと、・・・もっと、きつく抱いて。離さないで・・・」
虚ろでいながら、熱に浮かされたようにあまりに必死な瞳だった。
「澪ちゃん、必ず迎えに来るから。」
柊は、そう耳元で繰り返す。
しかし、澪の心にその言葉が届いていたのかは分からない。微笑んだまま、澪は彼の腕の中ですうっと眠りに落ちていったのだ。
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