自分から婚約者に会いたいと言い出した澪を、両親はやっとその気になってくれたのかと喜び、彼と会うセッティングをしてくれた。澪は、白川に送られ、婚約者と食事に出かけた。
洒落たレストランで向かい合ってテーブルに就き、料理を選んで注文をし、ウェイターが去った直後、澪は黙ってその写真を彼に手渡した。
ふと不思議そうに、だけど微笑んでそれを受け取って、中を見た彼の表情は、一瞬で強張り、そしてこれ以上ない不快さを露わにした。そして、彼は汚らわしいものを見るような驚愕の表情でゆっくりと澪に視線を戻す。
「・・・これは、いったいどういうことですか?」
「ご覧になった通りのことです。」
澪は、無表情に答える。
「・・・これは・・・、それだけ、だったのですよね?」
彼の呼吸は苦しそうだった。
それだけ、とは衣服を剥ぎ取られただけで、それ以上のことはなかったんだろう?と彼は最後の望みを掛けて聞いているのだと澪には分かった。
「こんな写真を撮る方が、それだけで終わると思いますか?」
事実、その後のことは、やはり今でも澪は思い出すことが辛い。あのときの恐怖と苦痛が蘇り、澪は少し青ざめた。
「その後は、数ヶ月に渡って監禁され、・・・妊娠が分かって放り出されました。」
ガチャンと音がして、彼がテーブルにこぶしをついたことが分かった。グラスの水がこぼれ、彼は片手で顔を覆った。呼吸がますます乱れ、それでも落ち着こうと努力していることが感じられる。
「・・・今でも、私はそのときのこと、彼に・・・抱かれて、もう、何も分からなくなったときの感覚が忘れられません。・・・彼を、忘れられないのです。」
言葉を選んではいても、そんなことを口にすること自体、澪には震えるほど勇気に要ることだった。自分を貶め、蔑まれても、成し遂げなければならないことのために。どうしても手に入れたいもののために。
「・・・無理です。」
やがて、彼は苦しそうに口を開いた。
「申し訳ありません。私には、許容の範囲外です。」
彼は、もう澪の顔を見なかった。
「失礼ですが、白川くんをお呼びいたします。私はこれで失礼させていただきます。」
顔を背けたまま、彼は席を立った。そして、まだ運ばれていない、だけど注文済みの伝票をテーブルから取り上げてレジへ向かい、苦しそうに、だけどそそくさと支払いを済ませると、振り向きもせずにそのまま外へ出て行った。
これで、終わった・・・、と彼が扉を出ていく気配を背後に感じて澪は目を閉じた。
これで、すべてが終わってしまった。もう、引き返せない。
ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。
だけど、同時にお腹の底から何か熱いものが湧き上がってくることも感じていた。
そして次の瞬間、澪の頬に熱いものが伝い落ちていた。後から後から零れ落ちるそれは、俯く澪の顔の下に、白いテーブルの上に、丸く池を作っていく。溢れる涙をぬぐいもせず、澪は声を殺して嗚咽を続けた。
婚約は破棄された。
彼はしかし、その理由については明確な言及を避けた。それでも、両親には薄々分かってしまったようだ。
「・・・澪、いったい、お前はどうするつもりなんだね?」
父は、重々しい苦痛に満ちた表情で娘を見据える。婚約破棄を仲人を通して知らされたその夜の食卓の席でのことだった。
「私は・・・」
澪は、震える声で父を見上げた。娘を心配する心よりも、そのときは世評に対する不安と勝手なことを仕出かす娘に対する怒りが勝っていた。
娘の意見を聞きたいのではない。ただ、責め、窘めたいのだ。
それまで、ずっと聞き分けの良い娘だった澪は、父のそんな険しい表情に出会ったことなくて心が竦んだ。彼は、いつでも彼女には優しい父親だった。しかし、それは、彼にとって澪が親に従うだけの従順な娘だったからだ。
「・・・私は・・・。」
澪は、その場の凍りつくような空気に呑まれて、言葉を紡ぎ出せない。
柊と過ごした時間に得た初めての感動と喜び。思いがけず得たそれを、彼女はもう一度味わい、試してみたかった。それで、反対は覚悟の上で、「高校を卒業したら、調理の専門学校に行って、料理の勉強をしてみたいです。そして、いずれは、そういう世界で働きたいと思ってます。」ということを思い切って話してみたかった。
しかし、そんなことを言い出せる雰囲気ではなかった。
「澪さん、黙っていては分かりませんよ。」
俯く澪に、父の横に座る母もため息をついた。
「男性側からお断りをされるなんて・・・。」
「澪、お前はこの家の跡取り娘だ。いずれ、然るべき婿をとって、彼の出世の助けになり、生涯夫を支えていかなきゃならないんだ。そういう心積もりを忘れてもらっては困るよ。」
両親にたたみかけられ、澪は、口をつぐんだ。
どうして、言えないのだろう?
自分の人生は自分で選びたいのだと。
洒落たレストランで向かい合ってテーブルに就き、料理を選んで注文をし、ウェイターが去った直後、澪は黙ってその写真を彼に手渡した。
ふと不思議そうに、だけど微笑んでそれを受け取って、中を見た彼の表情は、一瞬で強張り、そしてこれ以上ない不快さを露わにした。そして、彼は汚らわしいものを見るような驚愕の表情でゆっくりと澪に視線を戻す。
「・・・これは、いったいどういうことですか?」
「ご覧になった通りのことです。」
澪は、無表情に答える。
「・・・これは・・・、それだけ、だったのですよね?」
彼の呼吸は苦しそうだった。
それだけ、とは衣服を剥ぎ取られただけで、それ以上のことはなかったんだろう?と彼は最後の望みを掛けて聞いているのだと澪には分かった。
「こんな写真を撮る方が、それだけで終わると思いますか?」
事実、その後のことは、やはり今でも澪は思い出すことが辛い。あのときの恐怖と苦痛が蘇り、澪は少し青ざめた。
「その後は、数ヶ月に渡って監禁され、・・・妊娠が分かって放り出されました。」
ガチャンと音がして、彼がテーブルにこぶしをついたことが分かった。グラスの水がこぼれ、彼は片手で顔を覆った。呼吸がますます乱れ、それでも落ち着こうと努力していることが感じられる。
「・・・今でも、私はそのときのこと、彼に・・・抱かれて、もう、何も分からなくなったときの感覚が忘れられません。・・・彼を、忘れられないのです。」
言葉を選んではいても、そんなことを口にすること自体、澪には震えるほど勇気に要ることだった。自分を貶め、蔑まれても、成し遂げなければならないことのために。どうしても手に入れたいもののために。
「・・・無理です。」
やがて、彼は苦しそうに口を開いた。
「申し訳ありません。私には、許容の範囲外です。」
彼は、もう澪の顔を見なかった。
「失礼ですが、白川くんをお呼びいたします。私はこれで失礼させていただきます。」
顔を背けたまま、彼は席を立った。そして、まだ運ばれていない、だけど注文済みの伝票をテーブルから取り上げてレジへ向かい、苦しそうに、だけどそそくさと支払いを済ませると、振り向きもせずにそのまま外へ出て行った。
これで、終わった・・・、と彼が扉を出ていく気配を背後に感じて澪は目を閉じた。
これで、すべてが終わってしまった。もう、引き返せない。
ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。
だけど、同時にお腹の底から何か熱いものが湧き上がってくることも感じていた。
そして次の瞬間、澪の頬に熱いものが伝い落ちていた。後から後から零れ落ちるそれは、俯く澪の顔の下に、白いテーブルの上に、丸く池を作っていく。溢れる涙をぬぐいもせず、澪は声を殺して嗚咽を続けた。
婚約は破棄された。
彼はしかし、その理由については明確な言及を避けた。それでも、両親には薄々分かってしまったようだ。
「・・・澪、いったい、お前はどうするつもりなんだね?」
父は、重々しい苦痛に満ちた表情で娘を見据える。婚約破棄を仲人を通して知らされたその夜の食卓の席でのことだった。
「私は・・・」
澪は、震える声で父を見上げた。娘を心配する心よりも、そのときは世評に対する不安と勝手なことを仕出かす娘に対する怒りが勝っていた。
娘の意見を聞きたいのではない。ただ、責め、窘めたいのだ。
それまで、ずっと聞き分けの良い娘だった澪は、父のそんな険しい表情に出会ったことなくて心が竦んだ。彼は、いつでも彼女には優しい父親だった。しかし、それは、彼にとって澪が親に従うだけの従順な娘だったからだ。
「・・・私は・・・。」
澪は、その場の凍りつくような空気に呑まれて、言葉を紡ぎ出せない。
柊と過ごした時間に得た初めての感動と喜び。思いがけず得たそれを、彼女はもう一度味わい、試してみたかった。それで、反対は覚悟の上で、「高校を卒業したら、調理の専門学校に行って、料理の勉強をしてみたいです。そして、いずれは、そういう世界で働きたいと思ってます。」ということを思い切って話してみたかった。
しかし、そんなことを言い出せる雰囲気ではなかった。
「澪さん、黙っていては分かりませんよ。」
俯く澪に、父の横に座る母もため息をついた。
「男性側からお断りをされるなんて・・・。」
「澪、お前はこの家の跡取り娘だ。いずれ、然るべき婿をとって、彼の出世の助けになり、生涯夫を支えていかなきゃならないんだ。そういう心積もりを忘れてもらっては困るよ。」
両親にたたみかけられ、澪は、口をつぐんだ。
どうして、言えないのだろう?
自分の人生は自分で選びたいのだと。
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