まだ、堕胎の可能な時期だった。
恐らく、澪は適切な処置を受け、その後はもう何事もなかったかのように、日常に戻る努力をしているだろう。
誰より、彼女の両親がそういう風に彼女を導き、澪も数ヶ月間の悪夢を、なかったこととして封印する術を身につけていくのだろう。
そして、いずれ、自分には警察の手が伸びるだろう、と柊は覚悟を決めていた。
仕事は淡々とこなし、注文も普通に受けてはいたが、いつでもそこを去れるように、常に準備をしていた。依頼主が困らないように、どこまでどの程度進んだか一目で分かるように、いずれ、誰かが引き継ぐ場合のことを考慮に入れて、デザイン画もパソコンできっちり仕上げて、何もかもを誰の目からも分かるように仕分けしながら進めていた。
そうやって、仕事にすべてを傾けなければならないほど、彼の心は動揺していた。
それは、‘不在’の寂寥感だった。
人は失ってから初めてその真価に気付く。
柊は、日が経つにつれて、ただがむしゃらに仕事に没頭していった。何も思い出さずに済むように。
澪の、料理を褒められて嬉しそうにはにかむ笑顔も。
これ、どうやって作るんだろう?とレシピを片手に悩む横顔の真剣さも。
ひたすら、仕事を進める彼の手元を見つめて、瞳を輝かせる子どもの目も。
彼の腕に狂う‘女’の顔も。
そして。彼女は、ここにいて、くつろいだ時間も確かにあったのだと信じられるようなまどろむ澪の幸せそうなうたたね。
気が付けば、柊は、澪の面影だけを追っていた。
僅か数ヶ月、ここで暮らした憐れな少女の。
年が明けて、ふと気付くと真冬の寒気は少しずつ緩み始めていた。
何故?澪は自分のことを警察に話さなかったのだろうか?
或いは、あの家では、その事実を隠し通すことに決めたのだろうか。澪の将来のために。それは充分に考えられた。娘の心の傷よりも、きっと世間体を気にする人々だ。
それとも、澪自身も、もうすっかり何もかもを忘れ去って、何事もなかったんだと普段の日常を生きているのだろうか。
そう考えると、柊は、どこかずきずきとする感覚を味わう。
むしろ、警察に捕まって、何もかもを洗いざらい告白出来た方が良かった。そうすれば、自分と澪との確かな時間の経過を、そこで繋ぎとめられたような気がしていた。
澪は、自分との時間、関係、その一切を、否定してしまったのだ。
それは、思いのほか、柊の心を打ちのめした。
それなら、自分も忘れてしまおうと、彼は思う。
何もかも。
二人で囲んだ食卓のほんのりと光った時間も。
朝方にふと目覚めて、腕の中の少女のあどけない寝顔に心が揺れた想いも、思わず「好きだ」と言いそうになって、目をそらした澪の熱い瞳の色も。
もともと、本来なら、自分は彼女の人生に触れるべき人間ではなかったのだから。
恐らく、澪は適切な処置を受け、その後はもう何事もなかったかのように、日常に戻る努力をしているだろう。
誰より、彼女の両親がそういう風に彼女を導き、澪も数ヶ月間の悪夢を、なかったこととして封印する術を身につけていくのだろう。
そして、いずれ、自分には警察の手が伸びるだろう、と柊は覚悟を決めていた。
仕事は淡々とこなし、注文も普通に受けてはいたが、いつでもそこを去れるように、常に準備をしていた。依頼主が困らないように、どこまでどの程度進んだか一目で分かるように、いずれ、誰かが引き継ぐ場合のことを考慮に入れて、デザイン画もパソコンできっちり仕上げて、何もかもを誰の目からも分かるように仕分けしながら進めていた。
そうやって、仕事にすべてを傾けなければならないほど、彼の心は動揺していた。
それは、‘不在’の寂寥感だった。
人は失ってから初めてその真価に気付く。
柊は、日が経つにつれて、ただがむしゃらに仕事に没頭していった。何も思い出さずに済むように。
澪の、料理を褒められて嬉しそうにはにかむ笑顔も。
これ、どうやって作るんだろう?とレシピを片手に悩む横顔の真剣さも。
ひたすら、仕事を進める彼の手元を見つめて、瞳を輝かせる子どもの目も。
彼の腕に狂う‘女’の顔も。
そして。彼女は、ここにいて、くつろいだ時間も確かにあったのだと信じられるようなまどろむ澪の幸せそうなうたたね。
気が付けば、柊は、澪の面影だけを追っていた。
僅か数ヶ月、ここで暮らした憐れな少女の。
年が明けて、ふと気付くと真冬の寒気は少しずつ緩み始めていた。
何故?澪は自分のことを警察に話さなかったのだろうか?
或いは、あの家では、その事実を隠し通すことに決めたのだろうか。澪の将来のために。それは充分に考えられた。娘の心の傷よりも、きっと世間体を気にする人々だ。
それとも、澪自身も、もうすっかり何もかもを忘れ去って、何事もなかったんだと普段の日常を生きているのだろうか。
そう考えると、柊は、どこかずきずきとする感覚を味わう。
むしろ、警察に捕まって、何もかもを洗いざらい告白出来た方が良かった。そうすれば、自分と澪との確かな時間の経過を、そこで繋ぎとめられたような気がしていた。
澪は、自分との時間、関係、その一切を、否定してしまったのだ。
それは、思いのほか、柊の心を打ちのめした。
それなら、自分も忘れてしまおうと、彼は思う。
何もかも。
二人で囲んだ食卓のほんのりと光った時間も。
朝方にふと目覚めて、腕の中の少女のあどけない寝顔に心が揺れた想いも、思わず「好きだ」と言いそうになって、目をそらした澪の熱い瞳の色も。
もともと、本来なら、自分は彼女の人生に触れるべき人間ではなかったのだから。
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