<さら>
彼の直筆の手紙の他に、ワープロ文字のカードと航空券が入っていた。
航空券は、薫の言う通り、便名が記されていた。そして、カードに写し出されていたのは、空港での待ち合わせ場所と迎えに来る人間の白黒の写真だった。
慶一さんからの簡単で素っ気ない別れの手紙。
これが、彼の本心だなんて、信じたくはない。だけど、それを書かざるを得ない事態なんだということだけは理解出来る。
それなのに、ここまでおいで、と手を差し伸べるような航空券とカード。どう理解すれば良いのか分からない。両親に相談したら絶対に反対されるだろう。
だけど、薫が行け、と言ってくれた。
そして、私も、行きたい。
行きたい。
それは、「生きたい」だ。このままでは私はいつか崩壊してしまう。必死に保っている今の状態を、いつまで続けられるのか分からない。もう、そろそろ限界だと身体が告げていた。
日に何度も幻を見てしまう。彼の声が聞こえてしまう。
それは、次第に薄れていきながら、私を誘っているように思える。
探しに来て欲しい、と。
ここまで来て欲しい、と。
それは、どこ?
行きたい。行きたい、どこに行けば会えるの?
閉まったままの喫茶店、彼のいないあの道、明かりの灯らない彼の部屋。寂しさと悲しさとで、私は胸がふさがれたように息が苦しくなる。彼を恨んでしまいそうになる。そういうドロドロとした靄の中に引きずり込まれそうになって、必死にもがく。
薫の笑顔がやっと私をここに、このゲンジツに留めてくれているけど、一人、部屋に戻った途端、何もかもかが崩れ落ちそうになる。必死に保っていた日常は、彼の不在の重さに耐え切れずに容易く消え去ろうとしている。
いつか会えると信じていた根本が揺らいでしまった今、会わずにいたら、私は死んでしまうかも知れない。
そこに、どんな真実が待っていても、そこでもう一度別れの言葉を聞くことになっても、行かずにはいられない。彼の口から出た言葉なら、受け入れよう。
そこで、そのまま息絶えたとしても。
<慶一。
一方的に別れを告げたのは俺なのに。
それが彼女ためだと信じて決めた筈なのに。
俺は、そうやってさらを失ったことに愕然とし続けていた。それまで、一刻も早くさらの元へ帰り、安心させたいと、この手に彼女を抱きしめる瞬間を心に描いてなんとか日常を保っていたのだと。それをようやく知った。
俺が今あるすべてのしがらみ、周囲の人の心をも思いやれる唯一の原動力だったのだと。
さらへ続くと信じていた道だったから、耐えることが出来たのだ。彼女の笑顔へと続くと信じていたからこその毎日だった。
その前提が崩れ去った瞬間、俺は、ここに居る意味すら見失ってしまった。
失ったモノは、もう取り戻せない。
だが、本当にそれが最善策だったのか?
本当に他に方法はなかったのか?
二人で生きる術を、本当に最後のギリギリまで模索すべきだったのではなかったか?
俺は、生まれて初めて、重い後悔の苦悩に翻弄されていた。
そして、もう何も聞こえず、何も見ず、ただ時間だけを過ごしていたのだ。
思えば、俺が英語を話すことを頑なに拒否していたのは、ここで生きていくつもりはないという無言のメッセージでもあったのだ。
☆☆☆
手紙を書いて以来、まるでそれまでと違って無口になり、塞ぎこんだように何もかもに上の空になってしまった慶一に、あるとき見かねたジェシーが話し掛けた。彼女は知っていた、父の秘書が慶一の書いた手紙に航空券を忍ばせたことを。そして、慶一の婚約者を日本から呼ぼうとしていたことを。
父親は、やはり父として、表立って意見出来ない妻には内緒で、当事者である娘に事前に知らせて欲しかったのろう。そして、彼女にも選んで欲しかったのだろう。従うだけの人生ではなくて、自ら望むことを見つめて、それを掴み取る手段を。それで、秘書が秘かにジェシーに計画を告げたのだ。
それを知って、ジェシーは非常に喜んだ。兄の婚約者、つまり義姉になる女性。彼女にとってはそういう認識だったのだ。
二人は他愛ない会話は楽しんだし、それは世界が広がる交流ではあった。しかし、育った環境が違い過ぎて、価値を置くもの、興味の置き所、それらがまったく違うことを二人は知る。つまり、生活を共にして生きていきたい相手ではないとお互いに分かってしまっていた。
ジェシーは、血のつながらない兄であっても幸せを喜べる程度に心根が素直だった。そして、母の意向についていけずに絶縁されて家を出た本当の兄の行方をずっとずっと追っていた。きっと、慶一がそれを知る前からずっと、だ。
英語で話しかけられた慶一は、いつもなら必死に理解しようとするのだが、そのとき、彼は話しかけられたことに対して応えた、という程度で、彼女の話をろくに聞いてはいなかった。
それでも、一生懸命何かを伝えようとする妹の必死な瞳と微かに分かる単語。次第に、彼は彼女の声に耳を傾け始める。
ステップ・シスター。
義理の姉?
ウェディング?
シー ウィル カム。
ひとつひとつの単語をゆっくりと発音しながら、慶一の顔を覗き込んだジェシー。
「…え?」
義理の姉となる人が、ウェディングのために来るよ、とそう聞こえた。
「え、…ウェディング? フーズ…ウェディング…」
「ユア」
ジェシーはころころと笑った。
アイ ウォントゥ ミート ハー
楽しそうにジェシーは笑った。
そんなことは、ない。何故なら、俺はさらに別れを告げた。万が一、それに疑問を抱いた薫ちゃんが、機転を利かせてさらを連れて来てくれようとしたって、俺はここの住所も何も知らせていない。不可能だ。
不可能だ。
なのに、慶一は、何の根拠もないのに、妹の笑顔を信じてしまった。いや、彼女に対して英語で質問する術を持っていなかったという方が正しい。そして、聞いて、実は根拠のない単なる希望だったという事実を知りたくなかったのかも知れない。
それでも、何故か、さらに続く道を慶一は感じ続けていた。
奇跡を信じていた。
そして、昨夜、ジェシーは言った。
ユウ ウィル シー ハー トゥモロゥ
およそ、翌日に挙式を控えた新郎・新婦の会話ではない。ジェシーも父も、そして父の秘書も、恐らく義母以外、どこへ辿り着くのかを知っている気がした。それが、どんなに険しいイバラの道であっても。寄り添う人々の心を感じた。
ジェシーは、そして、彼女自身何かを決意したようなすっきりとした目をしていた。妹も、いろいろなことに背中を押されて、何かを選び取ったのかも知れない。
その瞬間、慶一は、覚悟を決めた。
明日、隣に立つ女性を、生涯掛けて守ることを。それが誰であっても。
彼の直筆の手紙の他に、ワープロ文字のカードと航空券が入っていた。
航空券は、薫の言う通り、便名が記されていた。そして、カードに写し出されていたのは、空港での待ち合わせ場所と迎えに来る人間の白黒の写真だった。
慶一さんからの簡単で素っ気ない別れの手紙。
これが、彼の本心だなんて、信じたくはない。だけど、それを書かざるを得ない事態なんだということだけは理解出来る。
それなのに、ここまでおいで、と手を差し伸べるような航空券とカード。どう理解すれば良いのか分からない。両親に相談したら絶対に反対されるだろう。
だけど、薫が行け、と言ってくれた。
そして、私も、行きたい。
行きたい。
それは、「生きたい」だ。このままでは私はいつか崩壊してしまう。必死に保っている今の状態を、いつまで続けられるのか分からない。もう、そろそろ限界だと身体が告げていた。
日に何度も幻を見てしまう。彼の声が聞こえてしまう。
それは、次第に薄れていきながら、私を誘っているように思える。
探しに来て欲しい、と。
ここまで来て欲しい、と。
それは、どこ?
行きたい。行きたい、どこに行けば会えるの?
閉まったままの喫茶店、彼のいないあの道、明かりの灯らない彼の部屋。寂しさと悲しさとで、私は胸がふさがれたように息が苦しくなる。彼を恨んでしまいそうになる。そういうドロドロとした靄の中に引きずり込まれそうになって、必死にもがく。
薫の笑顔がやっと私をここに、このゲンジツに留めてくれているけど、一人、部屋に戻った途端、何もかもかが崩れ落ちそうになる。必死に保っていた日常は、彼の不在の重さに耐え切れずに容易く消え去ろうとしている。
いつか会えると信じていた根本が揺らいでしまった今、会わずにいたら、私は死んでしまうかも知れない。
そこに、どんな真実が待っていても、そこでもう一度別れの言葉を聞くことになっても、行かずにはいられない。彼の口から出た言葉なら、受け入れよう。
そこで、そのまま息絶えたとしても。
<慶一。
一方的に別れを告げたのは俺なのに。
それが彼女ためだと信じて決めた筈なのに。
俺は、そうやってさらを失ったことに愕然とし続けていた。それまで、一刻も早くさらの元へ帰り、安心させたいと、この手に彼女を抱きしめる瞬間を心に描いてなんとか日常を保っていたのだと。それをようやく知った。
俺が今あるすべてのしがらみ、周囲の人の心をも思いやれる唯一の原動力だったのだと。
さらへ続くと信じていた道だったから、耐えることが出来たのだ。彼女の笑顔へと続くと信じていたからこその毎日だった。
その前提が崩れ去った瞬間、俺は、ここに居る意味すら見失ってしまった。
失ったモノは、もう取り戻せない。
だが、本当にそれが最善策だったのか?
本当に他に方法はなかったのか?
二人で生きる術を、本当に最後のギリギリまで模索すべきだったのではなかったか?
俺は、生まれて初めて、重い後悔の苦悩に翻弄されていた。
そして、もう何も聞こえず、何も見ず、ただ時間だけを過ごしていたのだ。
思えば、俺が英語を話すことを頑なに拒否していたのは、ここで生きていくつもりはないという無言のメッセージでもあったのだ。
☆☆☆
手紙を書いて以来、まるでそれまでと違って無口になり、塞ぎこんだように何もかもに上の空になってしまった慶一に、あるとき見かねたジェシーが話し掛けた。彼女は知っていた、父の秘書が慶一の書いた手紙に航空券を忍ばせたことを。そして、慶一の婚約者を日本から呼ぼうとしていたことを。
父親は、やはり父として、表立って意見出来ない妻には内緒で、当事者である娘に事前に知らせて欲しかったのろう。そして、彼女にも選んで欲しかったのだろう。従うだけの人生ではなくて、自ら望むことを見つめて、それを掴み取る手段を。それで、秘書が秘かにジェシーに計画を告げたのだ。
それを知って、ジェシーは非常に喜んだ。兄の婚約者、つまり義姉になる女性。彼女にとってはそういう認識だったのだ。
二人は他愛ない会話は楽しんだし、それは世界が広がる交流ではあった。しかし、育った環境が違い過ぎて、価値を置くもの、興味の置き所、それらがまったく違うことを二人は知る。つまり、生活を共にして生きていきたい相手ではないとお互いに分かってしまっていた。
ジェシーは、血のつながらない兄であっても幸せを喜べる程度に心根が素直だった。そして、母の意向についていけずに絶縁されて家を出た本当の兄の行方をずっとずっと追っていた。きっと、慶一がそれを知る前からずっと、だ。
英語で話しかけられた慶一は、いつもなら必死に理解しようとするのだが、そのとき、彼は話しかけられたことに対して応えた、という程度で、彼女の話をろくに聞いてはいなかった。
それでも、一生懸命何かを伝えようとする妹の必死な瞳と微かに分かる単語。次第に、彼は彼女の声に耳を傾け始める。
ステップ・シスター。
義理の姉?
ウェディング?
シー ウィル カム。
ひとつひとつの単語をゆっくりと発音しながら、慶一の顔を覗き込んだジェシー。
「…え?」
義理の姉となる人が、ウェディングのために来るよ、とそう聞こえた。
「え、…ウェディング? フーズ…ウェディング…」
「ユア」
ジェシーはころころと笑った。
アイ ウォントゥ ミート ハー
楽しそうにジェシーは笑った。
そんなことは、ない。何故なら、俺はさらに別れを告げた。万が一、それに疑問を抱いた薫ちゃんが、機転を利かせてさらを連れて来てくれようとしたって、俺はここの住所も何も知らせていない。不可能だ。
不可能だ。
なのに、慶一は、何の根拠もないのに、妹の笑顔を信じてしまった。いや、彼女に対して英語で質問する術を持っていなかったという方が正しい。そして、聞いて、実は根拠のない単なる希望だったという事実を知りたくなかったのかも知れない。
それでも、何故か、さらに続く道を慶一は感じ続けていた。
奇跡を信じていた。
そして、昨夜、ジェシーは言った。
ユウ ウィル シー ハー トゥモロゥ
およそ、翌日に挙式を控えた新郎・新婦の会話ではない。ジェシーも父も、そして父の秘書も、恐らく義母以外、どこへ辿り着くのかを知っている気がした。それが、どんなに険しいイバラの道であっても。寄り添う人々の心を感じた。
ジェシーは、そして、彼女自身何かを決意したようなすっきりとした目をしていた。妹も、いろいろなことに背中を押されて、何かを選び取ったのかも知れない。
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