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Stories of fate


陰影 2

陰影 第二部 (交わらない軌跡) 17

<さら>

 ねえ、さら。
 と薫が言った。武さんが三人分の飲み物を買いに行ったとき。

 マスターのこと、忘れようとしてるの?

 心配、というよりは、むしろ少し責めるような色を帯びていて、私はその薫の瞳の強い光に、ただうっとりと見入ってしまった。

 それとも、ただ、信じてるの?

 私が何も答えなかったので、彼女は、今度は少し柔らかい口調になって聞いた。
 私は静かに首を振った。

「分からないの」

 分からない。
 彼の心も、自分の心も。

 頭では何度も疑って、信じられなくって、遊ばれて捨てられたんだと言葉では考えてもみた。いや、言い聞かそうとしたのだろうか。

 だけど、私の身体はそんな私の考えを真っ向から否定する。抱きしめられたときの肌の熱さを、鼓動を、瞳の色だけを私の五感は隅々に刻み込んで、反芻して、漂っている。懐かしく。狂おしく。

 信じているとか、疑っているとか、そんなことじゃなくって、そういうことですらなくって。

 慶一さんのすべてをどこかでまだ感じている気がする。
 あの、低くて甘い声をずっと聞いている気がする。
 いつでも、あの喫茶店の厨房に、心は還っていく。二人だけの空間へ。

 どこかで、まだ繋がっている気がする。
 だけど、それを説明出来なかった。

 薫はそれ以上追及してこなかった。代わりに、「ごめんね」と言った。どうして謝るの?
 うん、と薫は窓の外に視線を移した。

「さらが、あんな風に取り乱してマスターの名前を叫ぶなんて、周りを気にする余裕もないくらい、ただ、本当に必死で探そうとしたことに…ちょっとショックを受けた。…ううん、違う。そこまで深くマスターを愛していたんだってことに気づかなかった自分に愕然としたの」

 薫は言った。そして、私を見つめて微笑んだ。あ、綺麗な笑顔だ、と私は思わずうっとりする。薫が、私にだけ見せる心からの聖母の顔。

「嬉しさ半分、寂しさ半分。だけど、私はさらに幸せになってもらいたい。それだけは本当よ」

 うん、と私は頷いた。
 窓を見ると、武さんがコーヒーを三つお盆に乗せて戻ってくる姿が映っていた。その優しいシルエットに、私は初めて、薫にとって、彼がどんな存在なのか、そして、私にとって慶一さんが何だったのかを知った。

 見つめて、いたい。
 その幸せを、その苦しみを、その痛みを。すべて、共に感じて歩いて行きたかった。何もかもを一人で抱えて、私には心配事を分けてくれない彼に、せめて、傍にいてくつろげる存在になりたかった。薫を見つめる武さんの瞳の優しさに、彼の幻が重なった。

 
<慶一>

 父は、俺がここに留まることを拒否するだろうことを実は予測していたようだった。感激の親子の対面とはならないだろうことも。母を一人で逝かせた父を、俺が恨んでいるだろうこと、そして、今まで連絡のひとつも寄越さなかったことを許してはいないだろうことを。

 子どもが親を探す場合は良い。子どもを捨てたも同然の親が後悔と共に子どもの行方を追っても、大抵、子どもはそれを迷惑としか感じられないものだ。許していれば、子どもの方が先に親を探すだろうから。

 だけど、俺は父を恨んでいた訳ではなかった。母が一切父の話をしなかったから、むしろ不思議だったくらいだ。母も、何をどう言って良いのか分からなかったのだろう。

 今回、不意に母に会いたくなり、俺の存在を知り、湧き上がった親心のために夫人の怒りを買ってしまった。それで思わず俺を呼んでしまったが、それは後を継いで欲しいと言うより、むしろ、俺の身を守りたかったからに他ならない。

 お互いに、こうやって顔を見て、少しでも話が出来た。父も、それで満足していたのかも知れない。
 だから、後は俺の選択に任せようとしてくれたのだろう。

 いきなり降って沸いたその話、それは賭けなのだと秘書は言う。

 つまり。
 父の仕事の関係者や親戚一同をすべて呼んで挙式を執り行う。そして、その場で俺が正式に宣言すれば良いと言うのだ。今後、父とは関わりなく日本で生きていくことを。

 そう。妹との婚姻の噂をもきっぱり消し去るために、花嫁としてさらを呼んで。

 しかし、それは、さらを関係者すべての前に晒し、父、議員の息子の伴侶が彼女であると周囲が知ることになる。今後、何らかの標的にされる危険性も同時に孕むことになると。

「さらを危険にさらすことになるなら、そんなことは出来ません」

 俺は、即答する。

「ですが、議員の夫人のお嬢さんとの婚約の噂もすでに知れ渡っていることです。いずれ、そうやって貴方が舞い戻るかも知れない憶測を残していくことは懸命ではないでしょう」

 俺が言葉に詰まった様子を冷静に見つめて、彼は続けた。

「それに、夫人に対して、そしてお嬢さんに対して、きっちりとケジメを付けられることをお勧めいたします。夫人は、このままでしたら、婚約披露パーティでも計画してしまいますよ。分かりますか? 貴方がはっきりしない間に、周囲は固められて身動き出来なくなりますよ。本気で動くなら、今の内です」

 感情はまったく伴わない事務的な口調だった。しかし、だからこそ、俺はそれは真実であろうと思えた。

 さらを呼ぶ。
 それは恐ろしく心躍る提案でもある。今すぐにでも会いたかった。抱きしめたかった。

 しかし。
 彼女をこの陰謀渦巻く父の家の関係者に会わせること、この地に呼ぶこと、そして、それに寄って今後、彼女の身に危険が及ぶかも知れないこと。

 それは、背筋が凍るほど恐ろしい想像だ。父の秘書は、はっきりとは言葉にしなかったが、義母が、何かを仕掛けてくる可能性があるのだろう。

 父はふと立ち上がって、窓へと歩み寄った。俺と秘書が日本語で会話を始めたため、彼に席を譲ったのだろう。秘書がゆっくりと俺の向かいにやってきてソファに腰を下ろした。

「お嬢さんとは、実際のところはどうなんですか?」
「妹が何か?」
「いえ」
「…ジェシーは…変な話ですが、本当に妹が出来た気がしてます。俺に、妹がいたらこんな感じなんだろうと。彼女には元々本当の兄がいたから、違和感もないみたいですし」
「ええ。お嬢さんとお坊ちゃんは仲の良いご兄妹でした」
「義母は、どうしたって、俺とジェシーを? 俺が身を引くと言っても?」
「貴方がどこでどうしていても、その血は、変わらない。特にお父上にとっては、ただ一人、心から愛した女性の産んだ、たった一人、血のつながった息子です。将来的に、再度、貴方にコンタクトを取りたいと考える日が来るかもしれない。それだけで、脅威なんでしょう」
「だから?」

 父は、我々の会話には一切口を挟もうとも、何を話しているのかを問い質そうともせずに、静かに暗い窓の外を見つめていた。その横顔を俺はずっと目の端に捕えていた。

 秘書は、答えなかった。
 俺が、ジェシーの手を取らない限り、義母がどんな手段でも厭わずに最終的には俺たち消し去ってしまいたいと思っていることは明確だった。二人とも、だ。つまり、父の息子と、その血を受け継ぐ子を生むかも知れない、さらとをだ。

「…それでも、お父上は、貴方が思う通りに、と。現時点で、私に出来る協力は今のところ、それだけですし、恐らく、それが最善の策です。貴方の伴侶を周知してもらうこと。それが今、奥様の野望を挫く最大のストッパーになるんです。予想外のことが起こると、人は驚き慌てて隙が出来ます。そこに付け入るしかないでしょう」
「…考えさせてください」
「時間がありません、慶一さん」
「そんな、むちゃくちゃじゃないですか」

 俺が声を荒げると、父が、傍に歩み寄ってきた。彼は秘書に何か言い、秘書は立ち上がった。その様子をぼんやり見上げて、俺は言った。

「せめて、あと1日、猶予をください」

 俺は、頭を抱えた。


☆☆☆

 その手を取って慶一は前を見た。

 キリストの祭壇の前に、穏やかな笑みを浮かべた神父が聖書を厳かに抱えて立っている。手の中にそっと包み込んだ花嫁の小さな手が微かに震えていることを彼は感じる。

 巻き込んでしまうことを恐れて、別れを決めた。ひどい男になっても良い。さらの命には変えられなかった。
 守りきれるとは思えなかった。たった一人で、一人の女性を。

 彼自身の命と引き換えて守ったとしても、それをさらが喜ぶはずもなかった。彼女に、愛する人に、生涯消えない傷を残すだけだ。自分を守ったせいで彼が死んだのだと。

 幸せになって欲しかっただけなのに。
 幸せにしたかっただけなのに。
 共に、歩んでいきたかっただけなのに。
 
 


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