<さら>
薫と一緒に、マスターのあの夜の足跡を追ってみた。最寄り駅で電車に乗り込む彼の姿を、確かに駅員さんが覚えていてくれた。そのとき、マスターに変わった様子はなかったという。
その同じ時間に、私は薫と電車に乗った。
それほど混んでいるでもなく、ガラガラに空いているでもなく、こんな遅い時間でもそこそこ人は乗り込んできて、そして、降りていった。乗り換えで一旦降りた駅は、夜中にも関わらず人ごみがけっこうあって、そこに紛れて消えてしまったマスターのことを覚えてくてくれそうな人なんていないように思えた。
でも、そんな筈はなかった。
人が一人、消えてしまうなんて。
確かに存在していた人がある日突然いなくなってしまうなんて。
イヤだ。
不意にそう叫びだしそうになって、私は知る。
イヤだ。
彼の消えた日常を、もう、これ以上続けることが耐えられない。彼の形をした空間が消えたんではない。私にとっては、彼は、すべて、だったのだ。
頬を涙が伝うのを止められずに、私は初めて彼の名を叫んだ。
「慶一さんっ、…慶一さん、どこ?」
怪訝そうに振り返る人の視線、薫の心配そうな瞳、駅の構内の闇に向かって、閉まり掛けている店のショーウインドウに向かって、私は叫び続けた。
「いやぁぁぁぁっ、慶一さん…っ」
彼の幻が微笑み、何度も振り返り、そして、どこかへ歩き去っていく。
行カナイデ。
…行かないで?
私は、その瞬間、愕然とした。
そうだ。
彼は自らの意志でどこかへ消えてしまったのだ。
<慶一>
到着して、引き合わされたのは、ぎょっとするほど俺に似た男だった。彼は、明かに黒人系の顔立ちをしていたが、2世か3世くらいの、白人交じりの肌色だった。俺に至っては母の血が濃く、顔の彫りもそれほど深くはない。それでも、明かに同じ血を彷彿とさせた。
相手は、日本語をほとんど話せなかったし、俺も英語は学校で習った程度だ。通訳を兼ねた弁護士…いや、秘書が、俺の言いたいことを一応伝えてはくれた。しかし、そいつも相手側とグルの男だ。本当に俺の言葉を伝えてくれたのか怪しい。
はじめまして、の握手が済んで、俺は言ったのだ。
「俺は、日本に生まれて日本で育ちました。母は、貴方のことを一切明かさないまま亡くなりましたし、俺も今更父親が恋しい年ではありません。母の遺してくれた店を続けていくつもりですし、それで満足してます。ここで、貴方の息子として生きていくつもりは一切ありません」
父は、少し意外そうな、悲しそうな表情を浮かべた。英語で何か呟いたが、俺にはさっぱり分からない。傍にいた秘書が、静かに言った。
「…お気持ちは分かりますが、議員は…貴方のお父上です。それだけは紛れもない事実であり、父が息子に会いたがるのは人として、親として当然のこととご理解ください」
ともかく、一旦自宅へ、と言われて俺は時差ボケではっきりしない頭のまま、その言葉に従うしかなかった。
そして。
俺はそこで更なる陰謀の存在を知ることになる。
呆れるほど広い敷地、その豪華な家の中に待っていたのは夫人と娘だった。息子はもう独立しているとかで、屋敷には一緒に住んでいないそうだ。血が繋がっていないのだから、異母兄弟ですらない。親同士の再婚に寄る義理の妹ということになるのか。
夫人も義妹も、俺を歓迎していないのは一目瞭然だった。ただひたすら冷ややかな、どこか観察するような視線を感じる。俺の全身をジロジロ眺めまわした挙句、夫人は俺を送ってくれた秘書に何かを言った。秘書は苦笑に近い笑みをもらし、義妹は俯いて何も言わなかった。
こちらの二人も黒人系の多少浅黒い肌をしている。漆黒の髪に茶色の瞳。夫人はどこか冷たい印象の整った美人で、それに比べると義妹はソバカスだらけの仔猫のような可愛らしい顔立ちをしていた。
陰謀とは。
父は、俺の身の安全のために、義母の連れ子と俺の婚姻話を提案したらしかった。そうすれば、彼女の娘が実質上後を継いだことになり、彼女も納得するだろうとの魂胆らしかった。
それを部屋に案内される途上で聞かされ、俺は、怒りを通り越して呆れてしまった。更に話は続く。夫人の連れ子の長男は、根は悪くないのだが頭が悪く、学校の授業にもついていけない状態で、結局は居心地の良くないこの家を出て、地方でブラブラしているらしい。
夫人は息子に見切りをつけ、娘の婚姻に望みを託そうという気になったらしく、今回のその父の申し出を承諾したそうだ。それで、俺を値踏みしてみたんだろう。
俺は、うんざりして空(くう)を見上げ、更に固く心に誓う。
さっさと日本へ帰ろう、と。
☆☆☆
慶一は、大きく息をひとつ吐いて一歩を踏み出した。
見上げた空は青く青く澄んで、まるでこの世のものではないような色彩でどこまでも高い。小鳥がさえずりながら彼の頭上を通り過ぎていった。
大陸の空気はやはり馴染めないと、彼は心の中で苦笑をもらす。
彼自身が選び、覚悟を決めたことなのに、まだどこかで微かな迷いがくすぶっている。
それが消えることは生涯ないのかも知れない。
それが、大きな後悔の渦となって彼を翻弄する日が来ないとも限らない。いや、…近い将来、必ず対峙せねばならない現実だ。
それでも、慶一はふるりと頭を振って、再度高すぎる空を見上げた。
薫と一緒に、マスターのあの夜の足跡を追ってみた。最寄り駅で電車に乗り込む彼の姿を、確かに駅員さんが覚えていてくれた。そのとき、マスターに変わった様子はなかったという。
その同じ時間に、私は薫と電車に乗った。
それほど混んでいるでもなく、ガラガラに空いているでもなく、こんな遅い時間でもそこそこ人は乗り込んできて、そして、降りていった。乗り換えで一旦降りた駅は、夜中にも関わらず人ごみがけっこうあって、そこに紛れて消えてしまったマスターのことを覚えてくてくれそうな人なんていないように思えた。
でも、そんな筈はなかった。
人が一人、消えてしまうなんて。
確かに存在していた人がある日突然いなくなってしまうなんて。
イヤだ。
不意にそう叫びだしそうになって、私は知る。
イヤだ。
彼の消えた日常を、もう、これ以上続けることが耐えられない。彼の形をした空間が消えたんではない。私にとっては、彼は、すべて、だったのだ。
頬を涙が伝うのを止められずに、私は初めて彼の名を叫んだ。
「慶一さんっ、…慶一さん、どこ?」
怪訝そうに振り返る人の視線、薫の心配そうな瞳、駅の構内の闇に向かって、閉まり掛けている店のショーウインドウに向かって、私は叫び続けた。
「いやぁぁぁぁっ、慶一さん…っ」
彼の幻が微笑み、何度も振り返り、そして、どこかへ歩き去っていく。
行カナイデ。
…行かないで?
私は、その瞬間、愕然とした。
そうだ。
彼は自らの意志でどこかへ消えてしまったのだ。
<慶一>
到着して、引き合わされたのは、ぎょっとするほど俺に似た男だった。彼は、明かに黒人系の顔立ちをしていたが、2世か3世くらいの、白人交じりの肌色だった。俺に至っては母の血が濃く、顔の彫りもそれほど深くはない。それでも、明かに同じ血を彷彿とさせた。
相手は、日本語をほとんど話せなかったし、俺も英語は学校で習った程度だ。通訳を兼ねた弁護士…いや、秘書が、俺の言いたいことを一応伝えてはくれた。しかし、そいつも相手側とグルの男だ。本当に俺の言葉を伝えてくれたのか怪しい。
はじめまして、の握手が済んで、俺は言ったのだ。
「俺は、日本に生まれて日本で育ちました。母は、貴方のことを一切明かさないまま亡くなりましたし、俺も今更父親が恋しい年ではありません。母の遺してくれた店を続けていくつもりですし、それで満足してます。ここで、貴方の息子として生きていくつもりは一切ありません」
父は、少し意外そうな、悲しそうな表情を浮かべた。英語で何か呟いたが、俺にはさっぱり分からない。傍にいた秘書が、静かに言った。
「…お気持ちは分かりますが、議員は…貴方のお父上です。それだけは紛れもない事実であり、父が息子に会いたがるのは人として、親として当然のこととご理解ください」
ともかく、一旦自宅へ、と言われて俺は時差ボケではっきりしない頭のまま、その言葉に従うしかなかった。
そして。
俺はそこで更なる陰謀の存在を知ることになる。
呆れるほど広い敷地、その豪華な家の中に待っていたのは夫人と娘だった。息子はもう独立しているとかで、屋敷には一緒に住んでいないそうだ。血が繋がっていないのだから、異母兄弟ですらない。親同士の再婚に寄る義理の妹ということになるのか。
夫人も義妹も、俺を歓迎していないのは一目瞭然だった。ただひたすら冷ややかな、どこか観察するような視線を感じる。俺の全身をジロジロ眺めまわした挙句、夫人は俺を送ってくれた秘書に何かを言った。秘書は苦笑に近い笑みをもらし、義妹は俯いて何も言わなかった。
こちらの二人も黒人系の多少浅黒い肌をしている。漆黒の髪に茶色の瞳。夫人はどこか冷たい印象の整った美人で、それに比べると義妹はソバカスだらけの仔猫のような可愛らしい顔立ちをしていた。
陰謀とは。
父は、俺の身の安全のために、義母の連れ子と俺の婚姻話を提案したらしかった。そうすれば、彼女の娘が実質上後を継いだことになり、彼女も納得するだろうとの魂胆らしかった。
それを部屋に案内される途上で聞かされ、俺は、怒りを通り越して呆れてしまった。更に話は続く。夫人の連れ子の長男は、根は悪くないのだが頭が悪く、学校の授業にもついていけない状態で、結局は居心地の良くないこの家を出て、地方でブラブラしているらしい。
夫人は息子に見切りをつけ、娘の婚姻に望みを託そうという気になったらしく、今回のその父の申し出を承諾したそうだ。それで、俺を値踏みしてみたんだろう。
俺は、うんざりして空(くう)を見上げ、更に固く心に誓う。
さっさと日本へ帰ろう、と。
☆☆☆
慶一は、大きく息をひとつ吐いて一歩を踏み出した。
見上げた空は青く青く澄んで、まるでこの世のものではないような色彩でどこまでも高い。小鳥がさえずりながら彼の頭上を通り過ぎていった。
大陸の空気はやはり馴染めないと、彼は心の中で苦笑をもらす。
彼自身が選び、覚悟を決めたことなのに、まだどこかで微かな迷いがくすぶっている。
それが消えることは生涯ないのかも知れない。
それが、大きな後悔の渦となって彼を翻弄する日が来ないとも限らない。いや、…近い将来、必ず対峙せねばならない現実だ。
それでも、慶一はふるりと頭を振って、再度高すぎる空を見上げた。
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