帰国後、ほどなく診療に訪れた彩子先生は、優を一目見て、何かを感じたようだった。それについては特に言及しなかったが、優の身体、細胞一つ一つから伝わる明確な‘生’への肯定の賛歌を聴き、それに応える施術を施してくれた。
「優さん、あまり心ばかり先走らないでくださいね。身体の声も聞きながら、ゆっくりね」
人は魂の生き物である。心に添って身体は変化する。それでも、物質世界の縛りのある肉体は、急激な変化についていけない。形あるものは、その形状を見守りながら進むしかないのだ。
目を開いてものを見ると、世界が違って見える。そして、彩子先生の言葉も、今まで一枚隔てて聞こえていたのだと知る。相手の心を言葉の端々から、目線や仕草から感じられるようになり、人がどんな風に自分を思ってくれているのかを知って、優は驚いた。今まで、相手から感じるのは悪意と、ケモノの雄の気配だけだった。優が世界を受け入れたと同時に、世界も優を受け入れてくれたような気がした。
そして、喜んだのは鍼灸の先生ばかりではない。佐伯も、そして二人を心配して待っていた屋敷の従業員一同も、優の表情の変化に、その蝶の変態を見るような様に驚きと同時に深い感銘を受けた。それまで必死に見守ってきた小さな子どもが成長した姿。それは感慨深いものだっただろう。
「旦那様、鹿島さんからご伝言がございます」
数日後、帰国後初めて樹が屋敷に滞在した夜、佐伯がメモを持って部屋を訪れた。優はいつもの通り、階下の浴場へ下りていた。
「ああ、ありがとう」
受け取って、そのメモに視線を落とした樹は、ふと佐伯がどこか立ち去り難く留まっている様子に顔を上げた。
「どうかしたのかい?」
「…いえ」
佐伯は一瞬良い淀み、樹の顔を見つめて少し寂しそうに微笑んだ。
「いえ。若奥様がとてもお元気になられ、とても喜ばしいことですが、そして、私共も確かに大変嬉しいのですが」
「何かあるのか?」
「いいえ」
佐伯は苦笑した。
「何も問題はございません。ただ、私はずっと娘が出来たような気がしてお世話させていただいておりましたので、なんと申しますか…」
「寂しくなった?」
「はあ。こんなことを申し上げては、その、…なんですが」
樹は恐縮している佐伯を見て、そんな風に困った様子の彼を初めて見て、その深刻さよりもあまりに意外で思わず笑ってしまった。
施設育ちの優は、もともとそれほど世話を必要とする子ではなかったが、何でも素直に従っていた彼女が、少しずつ自分で出来ることはやる、と努力をするようになり、手を差し伸べたくてもそれを我慢する、というのはずっと彼女を見守ってきた佐伯にとっては寂しいことなのだろう。
「佐伯さん、優ちゃんは少ししっかりしたように見えるけど、まだまだ変わらないよ。佐伯さんには今まで以上に優ちゃんを監視していてもらわないと。目標が出来て張り切ってはいるけど、むしろ、それは身体に負担がかかるからね。あの子が、佐伯さんの手が必要なくなるってことは当分ないよ」
「…左様でございましょうか」
「うん。俺も仕事は相変わらずだし、休暇を取っちゃったからね、仕事が詰まってしばらく優ちゃんの面倒見られなくなるから、よろしく頼むよ。それに…」
ふと厳しい瞳になって、樹は空(くう)を見つめた。
「ちょっと厄介ごとが起こりそうな気もするし」
「厄介ごと…ですか? また、それは、どんな?」
樹は心配そうな佐伯に視線を戻して微笑んだ。
「いや。大丈夫だよ。それより、そういう訳だから、優ちゃんのことは引続き佐伯さんに願いするよ。くれぐれも、体調管理に気遣って欲しい」
「かしこまりました」
むしろ、どこか嬉しそうに、誇らしそうに佐伯は頷き、一礼して去っていった。
その後ろ姿を見送って樹はくすくす笑う。樹も母もほとんどこの屋敷に寄りつかない中、唯一の住人となっている優が、彼は可愛くて仕方がない、という様子が伝わってきて、彼は微笑ましいと思うのと同時に、胸が熱くなるほど彼に感謝した。
「佐伯さん、本当にお願いするよ。もし、俺が優ちゃんのそばにいられなくなっても、貴方がいてくれれば、安心だ」
帰り際の美也子の心配が、そしてレオが言った言葉が、樹はずっと引っ掛かっていた。
‘俺にその道を歩ませるなら、君にも相応の覚悟はしてもらわないと。’
あれは、断るためというより、むしろ、初めからそれが目的だったのでは? という言葉だった。レオは、兄は、初めから樹を引き込むつもりだったのではないだろうか。
美也子が彼を探す理由など、しかも、ハワイに呼び出す目的など、レオはとっくに知っていた筈だ。弟(樹)が、現在どんな立場にいて、何を望んでいるのか。
それを知った上で二人の呼び出しに応じたのなら、レオは断るつもりで来たのではない、ということだ。断るなら、呼び出し自体を断っていた筈だ。
「はめられたかな」
もし、跡目争いの渦中に身を投じることになれば、当然、優にも危険が及ぶ。もしかしたら、しばらく優とは離れて暮らさなければならないかもしれない。
やっと樹の傍で安定してきた優が、そんな生活に耐えられるだろうか。
いや。
むしろ、俺自身が耐えられるだろうか? そこに思考が至って樹は苦笑する。
「兄さん、俺と優ちゃんを引き離すなら、貴方にも相応の覚悟はしてもらうよ」
低く呟き、虚空を見据えた樹の目は、彼自身そうとは意識せず、レオが見せた笑顔と同質のものだった。
「優さん、あまり心ばかり先走らないでくださいね。身体の声も聞きながら、ゆっくりね」
人は魂の生き物である。心に添って身体は変化する。それでも、物質世界の縛りのある肉体は、急激な変化についていけない。形あるものは、その形状を見守りながら進むしかないのだ。
目を開いてものを見ると、世界が違って見える。そして、彩子先生の言葉も、今まで一枚隔てて聞こえていたのだと知る。相手の心を言葉の端々から、目線や仕草から感じられるようになり、人がどんな風に自分を思ってくれているのかを知って、優は驚いた。今まで、相手から感じるのは悪意と、ケモノの雄の気配だけだった。優が世界を受け入れたと同時に、世界も優を受け入れてくれたような気がした。
そして、喜んだのは鍼灸の先生ばかりではない。佐伯も、そして二人を心配して待っていた屋敷の従業員一同も、優の表情の変化に、その蝶の変態を見るような様に驚きと同時に深い感銘を受けた。それまで必死に見守ってきた小さな子どもが成長した姿。それは感慨深いものだっただろう。
「旦那様、鹿島さんからご伝言がございます」
数日後、帰国後初めて樹が屋敷に滞在した夜、佐伯がメモを持って部屋を訪れた。優はいつもの通り、階下の浴場へ下りていた。
「ああ、ありがとう」
受け取って、そのメモに視線を落とした樹は、ふと佐伯がどこか立ち去り難く留まっている様子に顔を上げた。
「どうかしたのかい?」
「…いえ」
佐伯は一瞬良い淀み、樹の顔を見つめて少し寂しそうに微笑んだ。
「いえ。若奥様がとてもお元気になられ、とても喜ばしいことですが、そして、私共も確かに大変嬉しいのですが」
「何かあるのか?」
「いいえ」
佐伯は苦笑した。
「何も問題はございません。ただ、私はずっと娘が出来たような気がしてお世話させていただいておりましたので、なんと申しますか…」
「寂しくなった?」
「はあ。こんなことを申し上げては、その、…なんですが」
樹は恐縮している佐伯を見て、そんな風に困った様子の彼を初めて見て、その深刻さよりもあまりに意外で思わず笑ってしまった。
施設育ちの優は、もともとそれほど世話を必要とする子ではなかったが、何でも素直に従っていた彼女が、少しずつ自分で出来ることはやる、と努力をするようになり、手を差し伸べたくてもそれを我慢する、というのはずっと彼女を見守ってきた佐伯にとっては寂しいことなのだろう。
「佐伯さん、優ちゃんは少ししっかりしたように見えるけど、まだまだ変わらないよ。佐伯さんには今まで以上に優ちゃんを監視していてもらわないと。目標が出来て張り切ってはいるけど、むしろ、それは身体に負担がかかるからね。あの子が、佐伯さんの手が必要なくなるってことは当分ないよ」
「…左様でございましょうか」
「うん。俺も仕事は相変わらずだし、休暇を取っちゃったからね、仕事が詰まってしばらく優ちゃんの面倒見られなくなるから、よろしく頼むよ。それに…」
ふと厳しい瞳になって、樹は空(くう)を見つめた。
「ちょっと厄介ごとが起こりそうな気もするし」
「厄介ごと…ですか? また、それは、どんな?」
樹は心配そうな佐伯に視線を戻して微笑んだ。
「いや。大丈夫だよ。それより、そういう訳だから、優ちゃんのことは引続き佐伯さんに願いするよ。くれぐれも、体調管理に気遣って欲しい」
「かしこまりました」
むしろ、どこか嬉しそうに、誇らしそうに佐伯は頷き、一礼して去っていった。
その後ろ姿を見送って樹はくすくす笑う。樹も母もほとんどこの屋敷に寄りつかない中、唯一の住人となっている優が、彼は可愛くて仕方がない、という様子が伝わってきて、彼は微笑ましいと思うのと同時に、胸が熱くなるほど彼に感謝した。
「佐伯さん、本当にお願いするよ。もし、俺が優ちゃんのそばにいられなくなっても、貴方がいてくれれば、安心だ」
帰り際の美也子の心配が、そしてレオが言った言葉が、樹はずっと引っ掛かっていた。
‘俺にその道を歩ませるなら、君にも相応の覚悟はしてもらわないと。’
あれは、断るためというより、むしろ、初めからそれが目的だったのでは? という言葉だった。レオは、兄は、初めから樹を引き込むつもりだったのではないだろうか。
美也子が彼を探す理由など、しかも、ハワイに呼び出す目的など、レオはとっくに知っていた筈だ。弟(樹)が、現在どんな立場にいて、何を望んでいるのか。
それを知った上で二人の呼び出しに応じたのなら、レオは断るつもりで来たのではない、ということだ。断るなら、呼び出し自体を断っていた筈だ。
「はめられたかな」
もし、跡目争いの渦中に身を投じることになれば、当然、優にも危険が及ぶ。もしかしたら、しばらく優とは離れて暮らさなければならないかもしれない。
やっと樹の傍で安定してきた優が、そんな生活に耐えられるだろうか。
いや。
むしろ、俺自身が耐えられるだろうか? そこに思考が至って樹は苦笑する。
「兄さん、俺と優ちゃんを引き離すなら、貴方にも相応の覚悟はしてもらうよ」
低く呟き、虚空を見据えた樹の目は、彼自身そうとは意識せず、レオが見せた笑顔と同質のものだった。
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