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Stories of fate


虚空の果ての青 第三部

虚空の果ての青 (扉を叩く優しい手) 11

 いつか消えてしまいそうに儚かった優は、少しずつ、確かな存在感を顕すようになってきたように思う。それは、優の内面の変化に他ならない。一つ一つは些細なことでも、例えば、学校で話す機会が増えたことや、あのパーティのとき、クラスメイトが彼女を守ろうと果敢に立ち向かってくれた姿を見たこと。そういう刺激が彼女を外界へと目を向けさせ、そこに世界があることを否応なく教えてくれたのだろう。

 抱きしめた腕の中からすり抜けて泡となって消えてしまいそうだと、そう言葉にはしなかっただけで彼は自分がいかに恐れていたのかを、優のくっきりした瞳の光を目の当たりにするようになってようやく知る。

「いつき」

 不意に、細い声が聞こえて樹ははっと声のした方を見る。

「髪がほどけちゃった」

 髪から雫をぽたぽたと滴らせながら、優がバスルームの扉の隙間からこちらを覗いている。

「良いよ、そのままおいで」

 優は言われて、ぺたぺたとやってくる。一応、自分で結びなおそうと努力した後があったが、うまくまとめられなかったようで、結局髪はほとんどがお湯に浸かってしまったようだ。

「優ちゃん、やっぱり髪、少し切らないとダメだよ」

 優の身体をタオルでくるみ、髪の毛を拭いてあげながら樹は苦笑する。以前、美容院へ連れて行こうとしたら、イヤだと、駄々をこねられたことがあったのだ。
 今度も、怯えた瞳で樹を見上げた優は、やはりイヤだと首を振る。

「じゃあ、俺が切ってやろうか?」

 優はそれでも首を振り続ける。

「髪を切るのが怖いの?」

 頷く優に、樹は不思議そうな顔をする。なんで? と聞くと、痛い、と優は答える。

「痛い…って、そんなバカな。君、今まで髪切ったこと、ある?」
「…分からない」
「なるほど」

 確かに、出会ってから一度も優を散髪へ連れていったことがなかった。施設ではきっと髪型は本人の自由にさせていたんだろう。樹は、ちょっと考え込む。彼女の場合、知らない場所で他人に触れられることが怖いということもあるのだろう。

「じゃ、美容師さんを呼んで、ここで切ってもらおうか」

 優は少し恨めしそうな目で樹を見上げる。

「どうしても?」
「少し切りそろえた方が良いよ」

 樹はきっぱりとした笑顔で答えた。



 日本語の分かる美容師と指定してホテルに手配してもらったら、やってきたのは日本人だった。渋々ながら、優は髪を他人に触らせる。それでも、最後までぐずぐずと泣き続けて美容師をハラハラさせたが、樹は譲らなかった。

「どの程度お切りいたしましょう?」

 毛先にブラシを通しながら、美容師の若い女性は尋ねる。髪を茶色に染め、恐らく長いであろう髪の毛を、彼女はくるりと後ろに留めていた。ほっそりした華奢な女性で、瞳が大きく顔の作りは小さかった。荒井京子と彼女は名乗った。樹は、ふと聞いたことのある名前だ、と思った。しかし、どこで聞いたんだっけ…? 思い出せなかった。

 京子は、呼ばれて部屋に通され、優を一目見て心の中で感嘆の声をあげた。職業柄…というより、彼女は元々レズ? と誤解されるくらい‘女の子’が好きだった。ただ、それは宝石を見て美しいと感じるように、或いは園芸家が植物を愛し、その特性を理解して最高の状態で生育させる満足のようなもので、むしろ、自分の作品としての女の子を愛している、というものだった。

 優に一目惚れした彼女は、‘優’という作品をどうしても自分の手で輝かせてみたいと思った。少し傷んだ毛先を最低限に切りそろえ、豊かな髪質を生かして…。
 彼女の頭は、すでにそういう夢が果てしなく広がる。

「ばっさり短くして良いよ」

 樹の言葉に優は顔色を変える。それでも、泣き叫んだりせずに、ただ静かにぽろぽろと涙を零す。その様子に、京子の方が戸惑った。

「あのう…せっかく、こんなに綺麗に伸ばしてらっしゃいますので、毛先を切りそろえるだけでよろしいのでは?」
「いや、まとめるのも大変だし、少し気分転換して短くしてみても良いよ。どうせ、髪はまた伸びるしね」

 それでも、多少心は揺れているらしい。樹の目はいつもの決然とした光はなく、泣いている優をちょっと辛そうに見つめている。

「ですが、あまり短くまとめますと、ますます幼い印象になってしまいますよ」

 鏡の前で髪をそっと持ち上げて、彼女は首を傾げた。ほら、こんな風に…と、言いたげに。
 その言葉に樹は更に揺れた。優はもともと年より幼く見える。それでなくとも年が離れている二人は、ますます親子のように見えてしまいそうだった。

「こちらに滞在してらっしゃる間だけでしたら、私が毎朝、髪を結い上げて差し上げますけど」

 美容師は微笑んだ。こんなに髪が長ければ、いろいろなバージョンで髪を纏め上げられるだろうと、彼女は少しわくわくする。

「…じゃあ、そうするか」

 必死の様子で鏡越しに樹を見つめる優の瞳に苦笑して、樹は言った。

「お任せしますので、お願いします」

 優も、そして京子もほっとして笑みを浮かべた。

 彼女は、日本で生まれ、日本で大学まで卒業したが、その後、単身ハワイに渡り、こちらで美容師資格を取得した。そして、現地の人と恋をし、もう日本へは帰らずハワイに永住権を申請している。日本人観光客の多いこの地で、彼女は英語の話せない日本人からそこそこ人気者だった。

「こうやって髪をまとめますからね?」

 ブラシと何か棒のような特殊な道具とを器用に操り、京子は優に向かって絶えず笑顔を向けながら作業をする。

「こんな綺麗な髪、見たことないですよ。本当に素敵ですね。柔らかいけどさらさらしているから、解け易いですけど、ちょっと固めますからね?」

 優の髪を丁寧に切りそろえ、簡単にはほどけないように、だけど優の負担にはならないように後ろできっちりと結い上げて、彼女は満足そうに自分の作品を目を細めて見つめる。

「どうですか? ほら、こうやって一部だけ流すと、ぐっと大人っぽい印象になるでしょう?」
「…はい」

 化粧をしたときも、鏡の中の自分は別人かと思った。しかし、今日は顔をまったくいじらないのに、髪の形を変えるだけで、こんなに印象が変わるのかと、優も驚いた。

「見事だね。魔法のようだ」

 背後で樹が感心して笑い、京子は誇らしげに微笑んだ。
 とても朗らかで明るい笑顔の女性だった。

 優は、雅子や樹の母親とはまた別の、そう、希美子に感じるような好意を抱いて彼女を見送った。また、明日の朝お邪魔いたします、と彼女はにこやかに去っていった。



 しかし、それが、彼女の姿を見た最後になったのだ。



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