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Stories of fate


虚空の果ての青 第二部

虚空の果ての青 (聖域) 52

 意識はない筈なのに、優の目から一筋の涙が零れ落ちた。

「優ちゃん?」

 声を掛けてみても、反応はない。せっかく口にした食事を恐らくすっかりもどしてしまったのだろう。こんな状態ではこの子の体力が持たない。

「優ちゃん…」

 樹は眠り続ける優の身体を抱きしめて、唇を噛み締める。

「ダメだよ、優ちゃん。君は俺のものだと言った筈だ。そんな風に自分を見捨てるような真似は許さないよ」

 規則的な弱々しい呼吸音、静かな鼓動。辛うじて生きているこの子の、微かな命の灯。どうすれば守れる? どうすれば、償えるのか?

 闇が二人を覆いつくしていた。
 死しても尚、清琳の放った絡みつくように重い闇が。

 そっとベッドに横たえると、優は何かを言いたげに小さく口を開いた。

「え?」

 と、耳を近づけると、優の唇は‘いつき’と動いた。
 その瞬間、樹は意図せず、激しい嫉妬の心が湧き起こった。何故だろう、それを彼を呼んでいるとは思えなかった。それだけが分かった。

 優の中にいる‘いつき’という人物。彼は、ただそこに在るだけで優の心を支配し、彼女の心をそこに縛り付けている。現実に何もしてやれないくせに。そして、あの夜、彼女を助けてあげられなかったくせに。

 何より、誰より、その男から優を奪い返さない限り、優は現実に戻ってくることが出来ない。
 ここに、樹の腕に帰ることはないのだ。



 一時間ほど眠って、優はふっと目を開けた。
 目を覚ましたというよりは、ただ、目を開けた、そういう感触だ。

 ベッドの隅に座って、鹿島が届けてくれた書類に目を通していた樹は、声を掛けることはせずに、ただ静かに優に視線を落とした。

 また、あの目だ…、と樹は思った。

 かつて、そういう目をして優は「怖いよう」と呟いた。現実にその瞳に映るものではなくて、彼女自身の作り出す過去の忌まわしい幻影を見つめるとき。その虚ろな視線の先には彼の姿はない。そのとき、優の目は、現実の何も映していないのだ。

 目を開けて空(くう)を見上げる優は、もう叫ぶことすらしなかった。深い意識の底に、その心を沈めてしまおうとするかのように。或いは、何かを決定的に諦めてしまおうとしているかに見えた。

 ぞっと背筋が粟立った。

「優ちゃん?」

 思わず声を掛けながら、樹はそっとその頬に手を伸ばした。頬に触れても、優は無反応だった。

「優ちゃん!」

 ぞっとするほど、その頬は冷たい。

「俺を見ろ、優ちゃんっ」

 冷たい頬を手の平で包み込み、樹は叫ぶように彼女の名を呼び続けた。しかし、優は、もう一切反応を示さない。そして、ふと触れた彼女の手が同じように冷たいことを知って、樹は青ざめた。

 慌てて彼女の衣服を外し、そして自らも服を脱ぎ捨てて優の身体を抱きかかえた。まるで、死人のように冷たい肌。樹は必死にその身体を包み込んで温める。皮膚をさすり、刺激を与え続けて、名前を呼び続けた。

「優ちゃん、優ちゃん、しっかりするんだ! 逝っちゃダメだ、戻って来い!」

 髪を撫で、背中をさすり、雪山で遭難した人を呼び戻すように、身体を温め続けた。次第に、樹は彼女を呼ぶ声が、涙でかすれていることに気づいた。そして、優の頬に涙の雫が伝い落ちていることに。いや、それは優の目からではなかった。

 樹は、泣いていた。

 それに気づいたとき、彼は、知った。優を失ったら、自分は正気ではいられないかも知れない、と。今まで何にも誰にも執着したことはなかった。欲しいものはすべて手に入れたと思っていた。だけど、それは錯覚に過ぎなかった。本当は、何もかも不確かで、ここに在ると思ったものは幻のように儚く脆いものなのだ。普通に過ぎていく当たり前だと思っていた日常は、本当はかけがえのない貴重な奇跡の連続に過ぎなくて、それを味わえる時間は本当は砂粒の中の煌きのように希少なものなのだ。

 いつき、と呟いたその小さな唇を、樹はそっと指でなぞり、そして、唇を合わせた。口の中は、まだ温かかった。涙で濡れた頬を撫でながら、樹は深く舌を合わせる。何かを意図した訳ではない。ただ、そうせざるを得なかった。優を、感じたかった。

 不意に、ぴくり、と優の身体が痙攣した。そして、次の瞬間、優の手が微かに動き、細い腕が彼の腕の中でもがく。

「んっ…、んぅ…っ」

 驚いて唇を離すと、優の目はすうっと焦点が合って、樹を見上げた。

「…優ちゃん?」

 まだ虚ろではあったが、優は、少し苦しそうな表情を浮かべていた。

「大丈夫?」

 反射的なのだろうか、優は小さく頷いた。ふと気が付くと、優の身体は温まって、顔色も幾分戻っていた。ほうっと息を吐いて、樹は頭を抱えた。そのまま優の身体を抱きしめていると、優は、どこか居心地悪そうに身じろぎをする。

「どうしたの?」
「あ…あの…」

 優はどこか怯えたまま小さな声で俯く。

「あの…」

 それでも、彼の腕の中から抜け出そうとしていることだけは分かった。

「優ちゃん、少しじっとしてな。食べたものを全部吐いちゃって、体力ないだろ?」
「や…っ、だ」
「何がイヤなのさ?」

 樹の声には幾分苛立ちのようなものが混じった。優が樹の腕から逃れようとしている理由は明白だ。彼女の‘いつき’が、この状況を望まないからだろう。

 樹の声色に、びくりと優は固まる。
 もがいたときに絡んだ優の髪の毛をすうっと手で梳きながら、樹は彼女の身体を更にきつく抱きしめる。

「最初の日と同じだね」

 ぽかん、と見上げる優のぼんやりとした目を覗きこんで、樹は言った。

「抱いて、良い?」
「え…」
「俺のものになって損はないと思うよ?」

 くすり、と樹は驚いて目を見開いた優の唇にそっとキスを落とした。

「やっ…あ、あ、イヤ!」
「何がイヤなのさ、優ちゃん?」

 何が?
 何が…だっけ?

「や、約束したから…」
「誰と?」

 優は、まるできょとんと彼を見上げた。

「…いつきと」
 

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#2227[2012/06/29 14:28]     

鍵コメたっさんへ

たつひこさん、

ありがとうございます。
はい、優ちゃんと樹のことに関して、ここでお返事いたしやす。

> ふたり、まさに佳境という感じですね。

↑↑↑はい、そう言われたみれば、そうです。
なんとなく流れて的に流しただけですが、なんでこんなに時間をかけてここを描いているんだろう?
と思ったら、きっとこれが第二部で言いたかったことの最大のテーマだったからだろうと今更思いました。

> 優ちゃんが自分のとるべき食事の量もわからない、というのは、生きることを無意識に拒絶しているんだろうな……と感じました。食欲というのは、やはり生きるうえで根っこにある欲求なので。

↑↑↑その通りなんす。
はいはい。
動物なんて、死にそうになっても食欲だけはあって、最後の晩餐的に貪欲に食べて死んでいった犬を思い出しました。
だから、無意識の‘生’への拒絶ってこういう形で現れるのかなぁ、と淡々と思いました。

> それを性/欲で埋めようとする(笑)樹には、久しぶりにくっそーとか思ってしまいましたが、まぁもうどんなやり方でもいいからなんとかしてほしいのも事実なのでおとなしく更新を待とうと思います^^

↑↑↑うひゃああああっ(^^;
樹くん、嫌われてて笑える~~~
ちょっとザマァと思うfateってオカシイ??

> > どんなに人気作家さんでもfateはヒトの闇をつつくだけつついて広げただけで終わる世界は嫌悪する。
> これもわかります、なのでぜひ優ちゃんを助けてあげてくださいね……!(いきなりすぎる願望)

↑↑↑へへへへへ。
そりゃあ、もう。
女の子は可愛いからぁ。
でも、可愛いと酷い目に遭わせるのはなんで?(ーー;

これは、ええと。
確か7月3日の更新で第二部は終了です。で、すぐに翌日から第三部が始まって、で・・・第三部は、まとめ的な流れで終わるので、短いです。
つまりは伏線を拾い上げて終了的な?
でも、拾い上げきっていない気もするけど・・・
まぁ、引き続きご意見・ご感想お待ちしております~(^^)

で、ひとことだけ。
いやいやいや。
たつひこさんは素晴らしい仲間がいらっしゃると思いましたよ、マジで。
そういう切磋琢磨は良いと思いますし、基本、お仲間さんのコメントはまったく不快にはなりませんでした。
そして、役に立たないかもなぁ、とおっしゃる批評もよく分かります。
そんなん、役に立ちませんよ、マジで。
fateのコメは感想に終始しているので、一般読者と思ってくださいまし。
執筆に関しては役に立つことは言えません。
だけど、本屋に並んだたつひこさんの本を手にとって読ませていただいた読者その①とでも思ってください(^^;
そのつもりで書いてますので!

fateって皆さんをけっこう褒めているように見えているだろうけど、実は、嫌いな作品にはコメを残さないだけで、好き嫌いはすんげ~はっきりしているし、人一倍好き嫌い激しいです。
ということで。
fateに嫌われたからって屁とも思わんだろうけど、fateが勝手にご訪問している作家さんはfateが心酔している作家さんですな。

だから何?
(いや、別になんでも~(^^;)
#2228[2012/06/29 17:06]  fate  URL 














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