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Stories of fate


虚空の果ての青 第二部

虚空の果ての青 (聖域) 50

 大分日が高くなってから喉の渇きに目覚めた樹は、枕もとの時計の針が、そろそろ正午を指しているのを見て呆然とする。

 腕の中で優はまだ青い顔をしてすうすうと寝息を立てている。目の周りが赤く腫れ、涙の痕がくっきりと頬に残っているのを見て、彼はきりきりと胸が痛んだ。それでも、そうやってその記憶を呼び起こすことが出来ただけ、浄化が進んだと思いたい。閉じ込められたままの記憶は、どんどん大きく育ち、いずれ化け物に成長して本人の心を食い尽くしてしまう。

 そっと身体を起こして腕に絡みついた髪の毛に視線を落とし、樹は柔らかく優の頭を撫でる。ただそれだけのことに、愛しさがこみ上げる。長い夜の果てに、やっとこの手の中に戻った輝石。記憶が戻らなくても、もう、良いと思った。歴史はこれから紡いでいけば良いのだ。

 冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを2本取り出した。1本をその場で飲み干し、もう1本を抱えてベッドに戻った。

 カーテンを少し開けて、光を部屋の中に入れ、その光の筋にぼんやり見入ってしまった樹は、自分がかなり疲れていることを感じた。それでも、優の壊れかけた心の形をなんとか保って、支えていけるのも自分だけだと彼は思った。

 その光に、優が目を覚ましてゆっくりと窓の方に寝返りをうった。
 樹の気配が傍にあることを、彼女は感じていた。

「おはよう、優ちゃん。…と言っても、もうお昼だけどね」

 樹は苦笑してベッドに腰かけ、ボトルの口を開ける。

「お昼…」

 優がかすれた声で少し不思議そうな視線を樹に向けた。

「そうだよ、少しは眠れた?」

 おぼろげながら、優は覚えていた。何度も襲ってくる悪夢からその度に救ってくれた優しい声を、熱い腕を。

「喉、渇かない?」

 樹は優に水のボトルを見せる。優は、ぼんやりとそれを見つめ、身体を起こそうとして、ふらふらとそのまま倒れこむ。樹はやれやれ、と優の身体を抱き起こした。

 ボトルを手渡してやると、優はゆっくりそれに口をつけた。少しずつ静かに、優は水をこくこくと飲み続ける。自分の身体の状態をあまり把握していない彼女は、いつも摂取し始めて、初めてそれを欲しかったんだと知るのだ。

「食事に行こうか」

 半分ほど飲み終わって一息ついた優に、樹は微笑む。
 優は再び考え込んで、小さく頷いた。

 樹の声にごく自然に反応していることに、優は気付いていない。それは身体に残った温かい記憶のカケラだった。呼び覚まされた悪夢が現実のことだったのだと考えることを優の身体が拒絶していた。それは呪わしく狂おしいほど悲惨な記憶だ。嫌悪に震え、吐きそうになっても、そこで留まっているのは、もっとも恐れていることにまだ触れずに済んでいるからだ。

 口にすることすら出来ない、渇望。切望。
 会イタイ、いつきニ。

 それが誰のことなのか明確には分からないのに、優の意識にのぼってきた想いは、それだった。
 会イタイ…

 あの事件の夜から、もう2週間の時間が過ぎていた。

 未だ尚身体中に残る痛みに顔をしかめながら、優は樹がベッドの上に並べてくれた衣類になんとか着替えを済ませ、じっと自分を見守る樹の柔らかい視線に気が付いて顔をあげた。

「…あ…あの、ごめんなさい」

 それでなくとも優は、モノゴトを手早くこなすことが出来ない。今は傷みを庇いながらなので、いつもよりもずっと動作がのろい。待たせているらしい彼に、遅い、と言われるのかと思って、優はおどおどと謝る。

 他人の視線に慣れない。自分に向けられるその眼差しの意味を理解できず、何故そんなにも怯えるようになってしまったのか、と樹は思う。

 優の中に、彼女自身の存在に対する何かが欠けてしまっている気がした。

「優ちゃん、…謝る必要なんてないんだよ。君は今怪我をしているんだし。出来ることをゆっくりこなしていこう?」
「…はい」

 首を傾げて樹を見上げる優の目には、まだ他人行儀で遠慮がちな光が宿っている。樹と過ごした時間の記憶は一切戻っていないのだ。覚悟はしたつもりでも、樹は確認する度に胸が痛むのを止められない。

 蘇ったのは忌まわしい時間の恐怖と、痛み、そして、あの男の亡霊だけなのだ。

 優を、再度ベッドに座らせ、冷たく絞ったタオルで彼女の顔を撫でてあげながら、樹は聞いてみる。

「優ちゃん、君、どうしてここにいるのか、どう理解してるの?」

 優はしばらく黙り込んだ。考えている、というよりは、答えを知ることに対してためらっているような感じだ。

「あの…、分かりません」
「君は今、中学3年生だと思ってる?」

 びくり、と優の身体が震えた。樹はタオルを外して優の前にしゃがみ込む。

「知りたい? それとも、もう少し時間が欲しい?」

 俯く優の顔を覗き込んで、樹は静かに聞いた。

「…あの…」

 何か言い掛けて黙り込み、きゅっと唇を噛み締めて優は再び俯いた。それは‘恐怖’の色だった。
 知りたくないわけがない。

 自分の過去、自分の歴史、自分の軌跡である。過去を、たとえそれが一部であっても失うということは、連続している筈の一本の糸を断ち切るのと同じ、ここに辿り着かないということだ。今、現在の自分が幻になってしまう。

 それでも、その中に強烈に蘇るのは、恐ろしくもおぞましい記憶だけであり、蘇る度にそれは悲惨さを極めていく。これ以上、何があるのか、優には考えたくなかった。

「あ、あの…」

 それでも、本当は知りたい。この人は誰なのか? 周りの親切な人々は誰なのか? そこに温かいものは存在していたのか?

 優は不意にぽろぽろと涙を零し始めた。

 苦しかった。身体中を引き裂かれるような、心をズタズタに食いちぎられるような苦しい痛みだけが彼女を支配する。抜け落ちた記憶を蘇らせることは、あの時間も同時にもっと鮮明に呼び起こされることだろう。そして、その果てに待っているのは、きっと、もっと辛い現実だ。何よりも優が恐れている答えが待っている。それが何であるか、知ることが怖かった。考えたくなかった。

 どうして良いのか、分からない。
 優の震える小さな手に涙がぽたぽたと落ちている。樹はその手を彼の大きな手でぎゅっと包み込んで言った。

「優ちゃん、一つだけ教えておくよ。俺は君の家族だよ。分かる? 君が甘えてもわがままを言っても唯一許される相手だ。もう、怖いことは起こらない。君のことは俺が必ず守る。だから、安心して?」
「家族…?」

 優は泣き顔のまま、そっと顔をあげて樹を見た。

「そう、家族だよ」

 樹は微笑んだ。


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ジャンル:[小説・文学] テーマ:[現代小説

~ Comment ~


アウッ!!樹に微笑まれたい!!
と思った自分にビックリしました・・・・。

優ちゃんに必死な樹がステキ。
幸せになって欲しいふたりです。
#2474[2012/09/30 22:39]  ハル  URL 

ハルさまへ

ハルさん、

>優ちゃんに必死な樹

↑↑↑そ、そうか。
そういえばそうだな。
しかし、元凶はこいつなんだから仕方あるまい(ーー;

> アウッ!!樹に微笑まれたい!!
> と思った自分にビックリしました・・・・。

↑↑↑そ、そうっすかぁ??
うう~ん、ハルさんに気に入られて樹は幸せじゃん。
ははは(^^;

でも、優ちゃんのために、確かに幸せになってもらいたい!
ほんとに!
#2476[2012/10/01 07:40]  fate  URL 














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