FC2ブログ

Stories of fate


虚空の果ての青 第二部

虚空の果ての青 (泉の淵) 47

 樹が部屋に戻ろうとしたところと、優が浴室から出てきたのとが同時だった。目の前で鹿島が二人に挨拶をして自分の部屋へ向かい、樹が向かっている先が自分と同じだと気付いて、優ははっとして立ち止まる。
 樹は部屋の扉を開けて、優を振り返った。

「どうしたの、優ちゃん? 早くおいで」

 優はそのまま廊下に立ちすくむ。その意味を考えて、彼女はひどく混乱していた。

 そう。優も分かっていた。その部屋は、どう考えても、優一人の部屋ではないということを。その部屋にはクローゼットが二つあり、一つは男物の衣類が入っていたのが一度ちらりと見えていたし、ベッドに用意されているガウンはいつも二つあった。そして、棚に入っているお酒のボトル。使い込んだカップやコーヒーメーカー。

 つい先ほども、樹は普通にその部屋を訪ね、コーヒーを湧かしていた。
 書棚の本は、難しい経済や会社経営に関するものが多く、ビデオやCDが綺麗に並んだボードが、他の人間の存在を示している。そしてそれらは、その空間に違和感なく存在しており、優自身もその中に溶け込んでいることが身体のどこかで分かっている、ような気がした。

 他にどうしようもなくて、優は扉を開けて待っている樹の前を、今にも腕をつかまれるのではないかとびくびくしながらそっと通り抜ける。

 樹は怯えて佇む優にちらりと視線を投げて、部屋のバスルームに消えた。
 やがて、シャワーを浴びる音が聞こえてきて、優はちょっと息をついて何か本を読もうかと一旦書棚に目を走らせた。しかし、本を手にしてはみたもののまったく集中できなくて、もう、今日は寝ようかとベッドを振り返った。その視線の端に、樹がバスタオルで頭を拭きながらバスルームから出てきた姿が映った。

 ぎくり、として優は反射的に本を置いてソファから立ち上がる。そして、彼がたいして自分に注意を払っていない間に、ぱたぱたとベッドに向かって駆け出した。

 ほぼ、予想通りの優の様子に苦笑しながら、樹は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、ボトルを一気に飲み干した。

 多少酔いが残っている樹は、どこか麻痺したままの感覚を手繰り寄せながら、目の前の小さな獲物をどうやって捕えてみようかと嗜虐的な思いを抱いてみる。精神的な疲労もピークに達しようとしていた。

 ステレオの電源をONにし、リモコンで静かなクラシックを流すと、途端に、凍り付いて滞っていた時間と空気が流れ出した。しばらくその音楽に耳を傾けた後、樹はベッドの上の優にゆっくりと近づいていった。気配は感じるらしい。優ははっと身を固くして、振り返った。その目にどこか曖昧に甘い怯えの色が宿る。

「優ちゃん? そんな顔をしないで。君に話があるんだけど」

 慌てて身体を起こし、毛布をぎゅうっと抱いたまま、ベッドの隅へとじりじり後ずさる優を目で追いながら、樹はくすりと笑った。本気で逃げようとしている訳ではない。どうして良いのか分からない、という目だ。

 壁際にすっかり身を寄せた優にはそれ以上近づかず、樹はベッドへ腰を下ろした。

「君も、本当は知りたいことがあるだろ? 自分のことも、俺もことも」

 優は微かに迷っていた。
 知りたくない、と言えばそれは嘘になる。
 ここに来てから、いや、病院で意識が戻ってから、優は何もかもに混乱し続けていた。何か、自分の知らない、だけど自分に関する歴史が闇に消えたことを否応無しに感じる。

 自分が認識している『今』と実際の時間はどれだけの差があるのか。
 自分の知らない桐嶋優は、どんな時間を過ごして『現在』に至ったのか。

 彼女にはもう、まったく分からない。

 だけど、自分を知るのはこの男だと、‘いつき’という人物だと、優はどこかで分かって、いるのだ。
 優を見つめる彼の瞳の奥に存在する確かな光。さり気ない態度、さり気ない仕草、その些細な行動の端々に、‘絆’が見えた。彼女とのつながりを疑っていない、特別なものの存在を。



 心の記憶とは別に、身体の記憶というものがあると、いつか、何かの本で読んだ気がする。



 いつでも、優は、男に触れられるだけで、一気に血圧が低下し、呼吸困難に陥り、目の前が真っ暗になって動けなくなる。

 それが、樹に関してだけは起こらない。

 佐伯も鹿島も、そして診察する医師ですら、ほとんど彼女に直接触れようとはしなかった。

 しかし、この男だけが、まったく何の躊躇いもなく彼女に近づき、ごく自然に彼女の身体を捕える。そこには何か奇妙に温かいものが宿る。心がどんなに怯えていても、身体は明確な拒絶を示さない。

 不思議なことだった。

 そんなことをぼんやり思う内に、不意に伸ばされた男の腕に抱き寄せられ、優は反射的に悲鳴をあげて暴れた。

「ひゃああっ…いやあっ」

 片腕を押さえられ、どさりとベッドの上に組み敷かれた優は、もう身動きすら出来ない状況に思考はすっかり停止してしまった。

「どうする? 大人しく話を聞く? それとも、このまま思い出させてあげようか?」

 何を? と聞くどころではなく、硬直して動けなくなった優を冷ややかに、しかし、どこかからかうような視線で見下ろして樹は言う。驚いて怯えていても、優はどこかで、彼が自分に対して、いや、他人に対してひどいことをしたりしない人だと感じていた。彼の瞳は、時折鋭い光を宿すことがあっても、そこにどす黒い闇が混じることはなく、どこまでも澄んでいるように見えたのだ。

「俺が誰か、知りたくない?」

 優は、一瞬ためらって、思考がついてくる前に慌てて首を振った。

「ふうん」

 樹は不満そうな表情を浮かべる。押さえ込んでいた腕を掴んだまま、もう片方の手でぐいと優の背を抱く。

「ぁ…」
「じゃあ、君は誰?」

 何を聞かれているのか分からなくて、間近に見つめられることに耐えられなくて、優は必死に顔を背ける。

「俺を見て、優ちゃん」

 その声にびくりと身体が反応した。どれだけ必死にもがいても、男の下から決して抜け出せない。こんな風に優に触れる男性なんて皆無だった筈なのに。

「や…ぁ、いやぁ…」
「こっちを向いて」

 あくまで静かに、樹は言った。間近に視線を感じ、優は怖くて必死にそれから逃れようとする。

「優ちゃん?」

 名前を呼ばれると身体の奥が熱く震える気がする。その奇妙な感覚を優は知っている気がした。熱い。樹の手から、触れる身体から熱が伝わってくる。それはそして、決して不快なものじゃなかった。

 しかし、次の瞬間、何か暗い映像が脳裏をかすめ、優ははっと呼吸が止まる。
 それは、ぞっとするほどおぞましいものだった。

「優ちゃん?」

 不意に、その声がぐんと遠くに聞こえた。





☆☆☆fateよりヒトコト・・・
この「漂う海原」と「泉の淵」には「忘却の」という言葉が隠れています。
・・・いや、ただ、それだけです(^^;
っていうか、あ、分かってた?
はははは。
関連記事
スポンサーサイト



もくじ  3kaku_s_L.png 紺碧の蒼
もくじ  3kaku_s_L.png 真紅の闇
もくじ  3kaku_s_L.png 黄泉の肖像
もくじ  3kaku_s_L.png 花籠
もくじ  3kaku_s_L.png 花籠 2
もくじ  3kaku_s_L.png 花籠 3
もくじ  3kaku_s_L.png 花籠 4
もくじ  3kaku_s_L.png 花籠 外伝集
もくじ  3kaku_s_L.png 蒼い月
もくじ  3kaku_s_L.png 永遠の刹那
もくじ  3kaku_s_L.png Sunset syndrome
もくじ  3kaku_s_L.png 陰影 2
もくじ  3kaku_s_L.png Horizon(R-18)
もくじ  3kaku_s_L.png Sacrifice(R-18)
もくじ  3kaku_s_L.png 閑話休題
もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
  ↑記事冒頭へ  
←虚空の果ての青 (泉の淵) 46    →虚空の果ての青 (釜の蓋) 48
*Edit TB(0) | CO(0)
ジャンル:[小説・文学] テーマ:[現代小説

~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


  ↑記事冒頭へ  
←虚空の果ての青 (泉の淵) 46    →虚空の果ての青 (釜の蓋) 48