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Stories of fate


虚空の果ての青 第二部

虚空の果ての青 (泉の淵) 45

 そのまま優は静かに数日を過ごし、週末の夕方、樹が屋敷に帰ってきた。
 優が退院したその日に、無理して時間を作って様子を見に来た樹だったが、思ったほどパニックに陥っていない優の姿に安心して、彼はその後は家に戻っていなかった。

「優ちゃんの様子は?」

 出迎えた佐伯に、樹は上着を渡しながら聞いた。彼の後ろを荷物を持って同じく怪我が治って退院した鹿島が付き添い、佐伯は鹿島と挨拶を交わした。

「もう、身体の方はすっかり?」
「はい。面目ありません。もう大丈夫です」
「それは何よりです」

 微笑んだ佐伯は、樹に向き直り、少し神妙な表情になった。

「若奥様はお元気にお過ごしです。それほど、違和感を抱いてはいらっしゃらないように思えます。ただ、記憶の方は、…まったくお変わりない様子です」
「そう」

 樹も、それほど期待はしていなかったけど、という風に頷いた。

「あれから、優ちゃんは何か聞いてきた?」
「…何かとおっしゃいますと?」
「どうして、自分はここにいなければならないのか? とか、いつ家に帰れるのか? とか」
「いいえ。そういう類のご質問はほとんどなかったと思います。ずっとお部屋で本を読んでお過ごしでした」
「そうか」

 まあ、そうだろうな、と樹は思う。優は、自分の境遇に対して、何かを強く望むことがほとんどなかった。そもそも、優は‘希望’というものがもともと薄い子だ。

「鹿島、今週末は俺はどこにも出かけない予定だから、君も週末は少し休養してくれ」
「かしこまりました」

 会社からの連絡も取り次ぐ必要はないという意味なのだと鹿島は頷く。会社側でも、今回のことは周知されていることなので、よほどの緊急事態に陥らない限り、樹に連絡を取ろうとはしないだろうと彼は思った。ただ、週末の動きに関して彼が常に把握しておけば、必要なときに、報告だけでも出来るだろう、と鹿島はそのまま屋敷に滞在するつもりを決めていた。

 手術とは言っても、内臓まで達するような傷はなく、骨折もなかった。ただ、切られた傷が深く、輸血を施し、数箇所を洗浄して縫合した。傷はまだ完全にはふさがっていなかったのに、鹿島は無理を言って退院してきたのだ。

 鹿島も桜木も、今回のことは自分のせいだと思っている。そして、それは樹にしてもそうだった。
 3人の中には、今でも静寂のことが深い傷として疼いていた。

 まっすぐ部屋に戻った樹は、本を抱きしめたまま優がソファに埋もれて転寝しているのを見つける。
 やれやれ、と彼は苦笑して薄着のままの優に彼のガウンをふわりと掛ける。そして、着替えを済ませ、いつもの習慣でとりあえずコーヒーを湧かす。

 樹の立てる物音に、優はうっすらと目を開けた。
 瞬間、優は自分がどこで目覚めたのか分からなくなって、着せ掛けられていたガウンの袖を、無意識にきゅっと握り締める。コーヒーの良い香りが漂ってきて、優は、何故だかその匂いを懐かしい思いでかいだ。

 身体を起こすと、備え付けられた簡易キッチンに立つ樹の後ろ姿が目に入り、ぼうっとした頭にはっきりと言葉という思考が戻るまで、優は身動きひとつせずにそのシルエットを眺めていた。不思議に恐怖を感じなかった。見慣れた背中のような気がしていた。

「コーヒー、飲む?」

 優の起きた気配に気付いて、樹は振り返る。
 声を掛けられて、優は初めてびくりと身体が反応した。

「はちみつ入れて、甘くする?」

 棚からカップを二つ取り出しながら樹は微笑んだ。
 優は慌てて首を振る。状況がうまくつかめないでいた。

「俺が誰か、…分かる?」

 カップに黒い液体を注ぎながら、樹は後ろ姿で問いかける。

「…いつきさま…」

 優は小さな声でおそるおそる答える。周りにいる誰もが、彼をそう呼んでいた。
 樹は、自分のことは何ひとつ優に説明していなかった。未だに、優は彼の名前くらいしか分からない。不意に現れては消えるつかみどころのない人物だという印象しかなかった。

「こっちにおいで、優ちゃん」

 樹はテーブルの上に並べたカップのひとつに蜂蜜をとろりと注ぎこみながら、小さなダイニングチェアを引いて座った。

 声も口調も静かで、命令的な気配は感じられなかったのに、優はその言葉に全身が緊張で強張るのを感じた。抗い難い何か強い空気が彼を取り巻いている。相手を言葉一つで意のままに操ることに慣れた、どこか支配者的な冷ややかさがあった。

「君は頭が良い子だ。薄々は、何か感じているだろう?」

 びくり、と優の身体に震えが走る。無意識につかんでいた彼のガウンを、優はますます強く握り締めた。その様子に気付いて、樹はふと笑みをもらす。

「こっちにおいで。俺が誰か、教えてあげるから」

 幾分、声のトーンが柔らかくなった。
 知りたくない、と何故か優は感じる。怖かった。何が怖いのか分からないが、優は身体の震えを止められず、ただ、小さく首を振り続けた。

 周りの人々の様子や態度から、彼がこの館の当主であることは想像に難くなかった。そして、彼を始めとして、周り中の誰もが優のことを知っている、それも疑いようはない。

 そして、最大の疑問。自分は確かにここに暮らしていたのだという痕跡、その事実。

 優は、今朝、クローゼットの中にセーラー服を見つけた。それは、清琳が始末しようとしていたものを、フェリーの中から鹿島の部下が見つけて持ち帰ってくれたものだった。その胸ポケットに生徒手帳を見つけ、彼女は思わず取り出してみた。

 そこには、鏡に写ったまさにその自分の写真が貼られていた。これから受験するはずの高校の生徒として。
 その事実に、優はしばし茫然とした。

 そして、どうしても思い出せない怪我の原因。
 確実に抜け落ちている『時間』が存在することをそれらは示していた。

 その、知らない自分を考えることが怖くて、その事実から逃げて、優は読書に没頭していた。唯一、心を開放できる手段として。

 決して近づいてこない優を、じっと見据えたまま、樹はカップを何度か口元に運んだ。
 目をそらすことも出来ず、優は怯えた瞳のまま、ソファの上で彼のガウンを抱きしめている。
 その緊張の糸を断ち切るかのように、不意に扉をノックする音が響き、佐伯が食事の時間を知らせた。

「夕食だって、優ちゃん。支度して」

 樹は言って、ゆっくりと立ち上がった。


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