怯える優にそのままついていた看護師は、ずっと樹が彼女の枕元に付き添っていた姿を何度か目にしていた。小さな彼女の手をそっと握り、まるで卵を抱く親鳥のように、愛しくてたまらないものを見つめる柔らかい瞳で。
その空間は、まるで聖域のようだった。
しかし、目の前で怯えているこの雛鳥は、守ってくれる筈の親鳥と外敵の区別がつかない。つまりは彼女の周囲はすべてが怖いものと認識されているのだ。彼女はその構図に心が痛んだ。
「大丈夫よ、優さん。あの方は怖い人じゃない。優しい方です」
看護師の白衣にすがりつく優の小さな頭をそっと撫でながら彼女は言った。
「優さんのことをずっと心配して付いていてくださったんですよ」
優は、小さく首を振る。知らない。そんなこと、知らない。彼女の記憶の中に、あの男の影は一切なかった。
早く、施設の自分の部屋に帰りたいと優は思った。
幸せな思い出があった訳じゃない。しかし、今、知っている安心できる唯一の場所は、そこだけだったのだ。看護師の白衣に顔を埋めて、優はどうして良いのか分からずに、頭の中は混乱したままだった。
扉が再び開いて、不意にさきほどの若い男性が入ってきた。
優は、泣きそうになって、彼女の腕にすがりつく。
「ありがとうございました。すみませんが、あとは…」
樹は、静かに看護師の目を見つめた。彼女は一瞬ためらったものの、必死な様子で自分を見上げる優に屈み込み、微笑み掛けて言った。
「じゃ、私はもう行きます。良いですか? 大丈夫です。何も心配要りません」
「…いや!」
離れて行こうとする看護師に、優は悲鳴に近い叫びをあげた。
「構いません」
ためらう看護師に、樹はそのまま出て行くように目で促す。彼女の腕に必死に追いすがろうとする優の手をすっと捕えて、樹は、ほぼ無表情のままで優を見下ろした。
声もなく青ざめた優は、恐怖のあまり、瞬間、ぐらりと視界が揺れる。
「優ちゃん?」
崩れるように腕の中に倒れこむ少女の身体を抱き寄せて、樹はその顔を覗き込む。
「大丈夫?」
すっかり強張った身体で、思考がまったく働いていない状態で、優は、もう何を言われているのかなど分からなかった。相手の悲しそうな声も、抱き寄せる腕の優しさも、何も感じられなかった。
樹は、半分虚ろな状態の優に小さなため息をつく。
「よく聞いて、優ちゃん。ちょっと事情があってね、今、君は施設には帰れないんだ。退院したら君を預かってくれる人の家に行く。学校の方も、怪我がすっかり治るまでは休むことになる」
樹の言葉に、優は目を見開いた。
はっきりと、恐怖と不信がその瞳に宿っている。いや、むしろ、言われていることをほとんど理解していない、という方が正しいかもしれない。
「静かに療養して、怪我がすっかり治った頃には帰れる。だから、今はちょっと我慢して、俺の言うことを聞けるね?」
誰一人、知っている人がいない白い病室の中で、そして、明らかに誰も自分を庇っても助けてもくれない状況の中、優の選択肢はないに等しかった。
彼女を置いて出て行ってしまった看護師の態度に、今、自分を捕えている相手には、誰も逆らえないのだと思い知る。優がここで悲鳴をあげて暴れたとしても、事態が好転するとは到底思えなかった。優は誰も信用などしていなかったし、駆けつけてくるであろう医師、或いは警備の人間にしても、いずれも男ばかりであろう。しかも、客観的に見て、どう考えても社会的に地位も信用もあるらしいこの男の方が正しい、ということになるだろう。
施設に帰れない事情?
一体、どうして?
考えても、何も浮かばなかった。
「また来るよ。しっかり休んでなさい」
樹は、固まったままの優の小さな身体をそっとベッドへ横たえた。決して自分を見ようとはしない震える少女の青ざめた顔を悲しげに見下ろして、樹はそのまま病室を出た。
そして、閉じた扉に一瞬もたれて空(くう)を見上げ、息を一つついた。
「こんなことが、あろうとはね…」
その空間は、まるで聖域のようだった。
しかし、目の前で怯えているこの雛鳥は、守ってくれる筈の親鳥と外敵の区別がつかない。つまりは彼女の周囲はすべてが怖いものと認識されているのだ。彼女はその構図に心が痛んだ。
「大丈夫よ、優さん。あの方は怖い人じゃない。優しい方です」
看護師の白衣にすがりつく優の小さな頭をそっと撫でながら彼女は言った。
「優さんのことをずっと心配して付いていてくださったんですよ」
優は、小さく首を振る。知らない。そんなこと、知らない。彼女の記憶の中に、あの男の影は一切なかった。
早く、施設の自分の部屋に帰りたいと優は思った。
幸せな思い出があった訳じゃない。しかし、今、知っている安心できる唯一の場所は、そこだけだったのだ。看護師の白衣に顔を埋めて、優はどうして良いのか分からずに、頭の中は混乱したままだった。
扉が再び開いて、不意にさきほどの若い男性が入ってきた。
優は、泣きそうになって、彼女の腕にすがりつく。
「ありがとうございました。すみませんが、あとは…」
樹は、静かに看護師の目を見つめた。彼女は一瞬ためらったものの、必死な様子で自分を見上げる優に屈み込み、微笑み掛けて言った。
「じゃ、私はもう行きます。良いですか? 大丈夫です。何も心配要りません」
「…いや!」
離れて行こうとする看護師に、優は悲鳴に近い叫びをあげた。
「構いません」
ためらう看護師に、樹はそのまま出て行くように目で促す。彼女の腕に必死に追いすがろうとする優の手をすっと捕えて、樹は、ほぼ無表情のままで優を見下ろした。
声もなく青ざめた優は、恐怖のあまり、瞬間、ぐらりと視界が揺れる。
「優ちゃん?」
崩れるように腕の中に倒れこむ少女の身体を抱き寄せて、樹はその顔を覗き込む。
「大丈夫?」
すっかり強張った身体で、思考がまったく働いていない状態で、優は、もう何を言われているのかなど分からなかった。相手の悲しそうな声も、抱き寄せる腕の優しさも、何も感じられなかった。
樹は、半分虚ろな状態の優に小さなため息をつく。
「よく聞いて、優ちゃん。ちょっと事情があってね、今、君は施設には帰れないんだ。退院したら君を預かってくれる人の家に行く。学校の方も、怪我がすっかり治るまでは休むことになる」
樹の言葉に、優は目を見開いた。
はっきりと、恐怖と不信がその瞳に宿っている。いや、むしろ、言われていることをほとんど理解していない、という方が正しいかもしれない。
「静かに療養して、怪我がすっかり治った頃には帰れる。だから、今はちょっと我慢して、俺の言うことを聞けるね?」
誰一人、知っている人がいない白い病室の中で、そして、明らかに誰も自分を庇っても助けてもくれない状況の中、優の選択肢はないに等しかった。
彼女を置いて出て行ってしまった看護師の態度に、今、自分を捕えている相手には、誰も逆らえないのだと思い知る。優がここで悲鳴をあげて暴れたとしても、事態が好転するとは到底思えなかった。優は誰も信用などしていなかったし、駆けつけてくるであろう医師、或いは警備の人間にしても、いずれも男ばかりであろう。しかも、客観的に見て、どう考えても社会的に地位も信用もあるらしいこの男の方が正しい、ということになるだろう。
施設に帰れない事情?
一体、どうして?
考えても、何も浮かばなかった。
「また来るよ。しっかり休んでなさい」
樹は、固まったままの優の小さな身体をそっとベッドへ横たえた。決して自分を見ようとはしない震える少女の青ざめた顔を悲しげに見下ろして、樹はそのまま病室を出た。
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