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Stories of fate


虚空の果ての青 第二部

虚空の果ての青 (漂う海原) 41

 看護師が少し慌てて出て行ったあと、今度は聴診器を首にかけた白衣の男性を伴って現れ、優はぎくりと緊張する。彼は、穏やかな笑顔を浮かべ、必要以上には優に近づかず、いくつか、優自身のことについて質問を繰り返した。優は特に不思議にも思わずに彼の質問に答えていく。

 しかし、どうでも良いような日常のことを延々と聞かれ、更に成績のことから周囲の人のことなどを質問攻めにされ、あまり人と話すこと自体がなかった彼女は、彼が去ったあとは疲れてぼんやりしてしまった。

 不意に意識がはっきりしたのは、間近で人の声が聞こえたからだった。
 知らぬ間にとろりとしていたようだ。

「…優ちゃん?」

 目の前に、見知らぬ男性が優をひどく心配そうな瞳で見下ろしていた。

「…っ?」

 優は驚いて、そして同時にその恐怖に身体が強張った。整った顔立ちの、背の高い若い男性だ。
 誰?
 優は泣きそうに怯えて、ふと彼の背後に立っているさきほどの看護師にすがりつくように助けを求める視線を投げた。

「俺が…分からない?」

 彼の声は低くて、よく響く綺麗な声だった。誰より、何より、愛しいはずの、大切な人の声だった。だが、今はただ、優は彼女に近づく男性がすべて怖かった。彼はあと一歩近づけば手が触れる距離に立ち、どこか悲しそうな視線を優に落としていた。

 その視線から逃れようと、優は顔を伏せて身を縮める。声も出なかった。

「優ちゃん?」

 彼の声に、優はびくりと身体を震わせる。
 見かねた看護師が、優のそばに歩み寄ってそっとその肩を抱いて声を掛ける。

「優さん? 大丈夫?」

 全身を強張らせて震える優は、小さく首を振り続けるだけだった。その様子を背後から見つめていた医師は、樹を促し、一緒に廊下へ出た。

「一時的なものとは思います」

 医師は言った。

「今は、あまり刺激しない方がよろしいかと。むやみに彼女の言葉を否定したりしないで、優さんがなんとなく納得出来るように今の状況を説明される方が良いと思います」
「…あの子の中では、昨年の夏から時間が進んでない、ということですか」
「ええ。正確には中学3年の夏休み前の辺り…ですね。何かその時期に思い当たる理由はございますか?」
「俺が、あの子に初めて出会った…いや、出会う前、ほぼ直前、です」

 医師は、一瞬、言葉をなくしたように見えた。
 二人は同時に悟った。優が忘れてしまったのは、忘れたかったことが、‘樹’のことなのだ、と。
 彼は精神科の専門医ではなかった。少しためらって、彼は言った。

「脳波に異常は認められませんでしたし、恐らくショックに寄るものと思われますから、身体の傷が良くなって、精神的に安定してくれば、記憶の方も徐々に蘇ってくると思います。あまり周りが神経質にならないことです。とにかく、命は無事だったのですし」
「…そうですね。ああ、その通りです」

 樹は唇を噛んだ。

「確かに、そうです。…それに、むしろ、今は辛い記憶はない方が良いのかもしれない」
「気楽に構えられて、ゆっくり療養させてください。もし、必要がありましたら、いつでも相応の専門医をご紹介いたします」

 医師は静かに言った。

「怪我の方はもうそれほど深刻ではありませんし、意識も回復されましたから、早ければ2~3日中には退院できます。…まあ、そうですね、その間に徐々に記憶が戻るかもしれませんし」
「…分かりました。よろしくお願いいたします。」

 疲れた表情で樹は頭を下げた。



 優を連れ去られてから今日まで、樹はほとんど休んでいなかった。

 救出されて運び込まれた病院で、傷だらけの優を見て、彼は愕然とする。まるで生命力のない青白い手足、透けるように白い頬。それでも、目を閉じた優の表情は奇妙に穏やかだった。まるで、すべてを諦めて手放してしまったかのように。

 清琳が現れるまで、優にはようやく生命力が蘇ってきたような、そんな輝きがあった。

 それは、東洋医学に後押しされた優の幸福感の象徴で、ようやく手に入れた穏やかな時間だった。それまで何一つ手の中になかった彼女が、たった一つ見つけた喜び、揺れる感情の起伏、それまで求めたことのない微かな生への欲望だった。

 それが、樹の存在に寄って辛うじて支えられていた。
 愛されることの意味を、その至福感を、ためらいながらもその手に抱こうとしていた、その小さな手。

 それを粉々に打ち砕かれ、もっとも嫌悪する地獄を味わわされ、優の心はその痛みに耐えられずに、壊れてしまったのだろう。

 必死に取り繕っても、守っていたつもりでも、優の内面はまだ見た目ほど安定してはいなかったのだ。どれだけ周りが法で彼女を守ろうとしていても、もともとそういう紙切れ上のことに無関心の彼女には、そんなものは何の防御にもならなかった。

 そして、清琳にとっても、何の障壁にもならなかった。
 早く。一刻も早く、優をその腕に取り戻し、抱きしめてやらないと、彼女の精神は崩壊してしまう。それだけは樹にも分かっていた。

 初めて、娘を失う父親の気持ちを理解した。
 腸が煮えくり返るとか、そういう生易しいものではなかった。内臓が引きちぎられるような、心を引き裂かれるような痛みだった。

 人を本気で殺したいと思ったのは、何の躊躇いもなく本気でそう思ったのは、樹にとっては初めてのことだった。

 そして。
 優、救出の知らせを受けて、生まれて初めて神に感謝し、その場に崩れそうになったとき、彼はどれだけ自分が彼女の存在に支えられていたのかを知った。

 幾晩も優の枕元に付き添い、彼女の目覚めを待った。ただ、生きていてくれた、それだけで何度でも涙が零れた。小さな手をそっと握りしめ、愛している、と繰り返し囁き続けた。

 しかし。やっと、意識を取り戻した優に会えると何もかもを置いて駆けつけた彼を待っていたのは、彼女の中に自分はいないのだという事実。

 絶望よりも、それまでまったく感じなかった疲れを、樹は全身に一気に受けたような気がした。



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ジャンル:[小説・文学] テーマ:[現代小説

~ Comment ~


優ちゃんが幸せになってくれさえすればいいと思っていました。
その時の幸せは、なんとなく、樹と(ここはまぁ仕方なくですけど。笑)楽しく生きることのような気がしていたのですが……もしかしたら苦しみから解放されて死ぬことなのかもしれないです。

優ちゃんは、樹がいるおかげで生きる喜びを覚えましたが、同時に樹がいるせいで同じくらいの苦しみを得る可能性が生まれてしまった。幸せは永遠に続くかも分からない、大切な人が明日も自分に寄り添ってくれるか分からない。
そんな彼女が楽になろうと無意識にやってしまったのが、自分の心を動かすことができた、ただひとりの男を忘れるということだったんですね。

もしも優ちゃんがこのままずっと樹を忘れ、生きることに一切の意味を見出せず呼吸を繰り返すのなら、いっそ死なせてやったほうがいいかもしれない。
そんな不謹慎なことを考えたある日の午後なのでした。

続きも待っております><
#2204[2012/06/18 13:43]  たつひこ  URL 

たつひこさまへ

たつひこさん、

なんか、マジで感動しました。
そこまで優ちゃんを想ってくれて!!
単に、二人を(優ちゃんを)幸せにして~!!
と言っていただくのも、それはそれで、愛されていることが分かって嬉しいですが、優ちゃん自身のことをそんな風に真摯に考えてくれて、そこまで深く掘り下げてくれて、本当に本当に本当に嬉しいです!!

> 優ちゃんは、樹がいるおかげで生きる喜びを覚えましたが、同時に樹がいるせいで同じくらいの苦しみを得る可能性が生まれてしまった。幸せは永遠に続くかも分からない、大切な人が明日も自分に寄り添ってくれるか分からない。

↑↑↑それは、まさにその通りなんです。
それまで、感情をほとんど持たなかった彼女は、生死すら曖昧で、望みもない代わりに絶望の色も深くはなかった。つまり、知らなかった。
優ちゃんは、文字通り天使のままだったんです。
そこに、人間として息吹を吹き込まれて、彼女は初めて生きようとした。
それは、だけど、危うい綱渡り状態で、樹の存在が彼女のすべてを支えていた。
まぁ、子どもは、親に祝福されて生まれ、愛されて育てられてようやく居場所を知るのだから、文字通り‘親’である樹が、その役割を担うのは当然の責任であろう。
そうやって、まだ生まれたばかりの彼女を守りきれなかった樹が、結局はすべて悪いんです。

> もしも優ちゃんがこのままずっと樹を忘れ、生きることに一切の意味を見出せず呼吸を繰り返すのなら、いっそ死なせてやったほうがいいかもしれない。

↑↑↑実は・・・
いや、最後に言います(^^;
(覚えてたらだけど。ははは・・・)

その内、掲載スピードを上げるかも知れませんが、すみません、今のところ予約投稿なので、しばらく1ページずつの更新でいきます~
よろしくです。
#2206[2012/06/18 19:41]  fate  URL 














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