FC2ブログ

Stories of fate


虚空の果ての青 第二部

虚空の果ての青 (神秘) 31

「あ…、あのっ」

 優が治療を受けるようになって一月が経過し、季節は初夏に向かっていた。
 その週末、幾分疲れた様子の樹が、部屋着を羽織る間もなくお風呂上りの優を背後から捕えたとき、彼女は少し怯えた視線で彼を見上げる。

「何?」

 そういう表情をするとき、大抵、それは樹が不機嫌になるのを分かっている…という内容なので、すでに声のトーンが低くなった樹の、その空気を敏感に嗅ぎ取って優は俯く。彼は、ゆっくりと彼女の顎に指をかけ、顔をあげさせる。

「あの…先生が…」
「先生? 高校の?」

 優はふるふると首を振る。

「誰?」
「綾子先生が…」
「彩子先生? …ああ、佐伯の知り合いの鍼灸の先生?」
「あの…、セックスは少し控えましょう…って」
「なるほど?」

 樹は、消え入りそうな声で怯えた眼をする優を抱き上げてベッドまで運び、微かに抵抗を示した彼女の自由を奪ったままシーツに沈める。

「い…いつき…待っ…」
「つまり、俺に少し手加減しろって?」
「ひゃあああっ」

 くすぐられて、優は悲鳴をあげる。

「まぁ、確かに優ちゃん、最近はずっと顔色良くなったし、何より」

 するりと大きな手で脇腹を撫でられ、優はそのくすぐったさに身をよじる。

「やぁぁっ」
「ただただ柔らかいだけだった肌に、張りと艶が出てきたよね」

 青白かった皮膚に赤みがさして健康的な息吹を感じるようになってきた。命が自ら輝こうとするように。それは、精神的なものと同時に鍼灸治療の効果であろう。優自身が、身体が楽になっていることを感じているからこそ、そんな風に彼女を信頼し、言われたことを守ろうと思うのだろう。

「君は、素直だね、まったく」

 くすくすと笑いながら、樹は、逃げようともがく優を背後からぎゅっと抱きしめて、ふわりと毛布をかぶせた。

「分かったよ、自重するよ。今夜はね」

 一緒に横になると、優は彼女の身体を抱きしめた樹の腕にそっとしがみつく。おいしい物を食べて、幸せを感じるかと彩子先生は聞いた。

 幸せを感じるのは。
 優は、ふと思う。

 ‘幸せ’を感じるのは、この瞬間だ。樹の腕の中でまどろむとき。彼の腕の中で眠りに落ちる刹那。それが至福のときだった。

 あっという間に、とろとろと眠りに落ちていく優の息遣いを聞きながら、樹は意識が彷徨うのを感じる。
 厳しい、現実という幻想の中へ。

 樹は、このところ、仕事の方があまりうまく進んでいなかった。

 共同経営を持ちかけられて始めた専門学校の生徒数が昨年から落ち込んでいて、定員割れ、利益割れを起こしていたのだ。

 原因は分かっている。同じ学科を持つ専門学校が、同じ沿線上に出来てしまい、そちらの学校の方が、交通の利便性が良いのである。樹が一緒に学校を立ち上げた現専門学校の校長は教育に理想を抱き、自らも同じ資格保持者であって、その世界をより良くしていきたいという夢のために始めた人であった。

 それに反して、もう一つの専門学校は、各種専門学校を経営している学校経営者が、その分野にも進出したに過ぎない、経営イコールお金のことしか考えていない人物であり、グループだった。それでも、多くの専門学校の経営実績があり、営業戦略は抜き出ていた。

 樹も、専門学校経営というものに関しては今回が初めての試みであって、その方面の心強い営業マンを育て切れていなかった。今後数年で巻き返しを図らないと経営が立ち行かなくなることは必至だ。

 その対策に頭を痛めていたのだ。
 正しいことが必ずしも通るのが、世の中ではない。
 それは初めから肝に命じていたはずだった。

 そして、その存在自体を疎まれて命を狙われ続けてきた彼には、身にしみて分かっていることでもあった。
 世の中の冷たさや温かさ、人の心の陰に潜む魔物、母の胸に抱きしめられた瞬間だけ、嫌悪すべき一切から守られ、楽に息ができた幼い日々。その胸をふさぐ臭気がまだ身体に沁みついたまま振り払えずにいる気がした。冷気が彼を取り巻き、視界がシュールに歪む幻覚。

 それから逃れたくて闇雲に人肌を求めた時期があった。
 そう、カーチャを失ってから、それは益々加速して彼に襲い掛かってきた。

 それを、ここしばらく忘れていたことを、樹は突然思い出す。
 いつから…?

 そして、腕の中ですうすう寝息を立てて、すっかり安心し切って眠る少女の横顔にはっとする。
 そうか。優に出会ってから、だ。

 彼を、無条件で信じ、慕い、求めてくれる存在。その真っ直ぐで不躾な熱い想い。人は、そういうものを得て、初めて生きていけるのだ。

「…守られていたのは、俺の方、か」

 ふと、樹は呟く。
 そして、今、抱えている仕事上の問題など、これからどうとでもなるさ、という気楽な気分になった。

 ここに、帰る場所がある。
 それだけで。

 
 
関連記事
スポンサーサイト



もくじ  3kaku_s_L.png 紺碧の蒼
もくじ  3kaku_s_L.png 真紅の闇
もくじ  3kaku_s_L.png 黄泉の肖像
もくじ  3kaku_s_L.png 花籠
もくじ  3kaku_s_L.png 花籠 2
もくじ  3kaku_s_L.png 花籠 3
もくじ  3kaku_s_L.png 花籠 4
もくじ  3kaku_s_L.png 花籠 外伝集
もくじ  3kaku_s_L.png 蒼い月
もくじ  3kaku_s_L.png 永遠の刹那
もくじ  3kaku_s_L.png Sunset syndrome
もくじ  3kaku_s_L.png 陰影 2
もくじ  3kaku_s_L.png Horizon(R-18)
もくじ  3kaku_s_L.png Sacrifice(R-18)
もくじ  3kaku_s_L.png 閑話休題
もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
  ↑記事冒頭へ  
←虚空の果ての青 (神秘) 30    →虚空の果ての青 (陰謀) 32 
*Edit TB(0) | CO(2)
ジャンル:[小説・文学] テーマ:[現代小説

~ Comment ~


こんにちは、読ませていただきました。

いっこうに肩こり首こりがおさまらないため、私にも彩子先生を紹介してほしいと本気で思ってしまったたつひこです。お金だけがあれよあれよで飛んでいくので最近は整体に行くのもやめて、家で細々とカッピングしております^^笑
だもんで、
>身体が楽になって初めて、それまで自分が辛かったのだと知るのだ。
この一文にみょーに共感して頷いてしまいました。

誘拐騒動もひと段落してほっとしています。とはいえ、まだ黒幕がギャフン(笑)と言っていないので、続きになにかあるんだろうな……とピリッと引き締まったまま読んでいます。
私は優ちゃん至上主義なので、樹はどれだけ痛んでもいいから優ちゃんをどうか幸せにしてくださいっ><!!
#2187[2012/06/08 11:19]  たつひこ  URL 

たつひこさまへ

たつさん、

寿司屋のオヤジ? いや、そこまで言ってない、寿司職人さんでした(^^;
いやいやいや、あちらのコメント欄で笑わせていただきました~

> いっこうに肩こり首こりがおさまらないため、私にも彩子先生を紹介してほしいと本気で思ってしまったたつひこです。お金だけがあれよあれよで飛んでいくので最近は整体に行くのもやめて、家で細々とカッピングしております^^笑

↑↑↑えええええっ、
それは大変苦しそう・・・
ええと、膝の下、内側の骨の際を触ってみて、そこに痛みがあれば、そこに千年灸とか指圧とかしてみるのも良いかも、です。
fateの知り合い鍼灸師が、けっこう腕が良い方(良い方! 程度っすが)なんで紹介して出張させたいわ~

> 私は優ちゃん至上主義なので、樹はどれだけ痛んでもいいから優ちゃんをどうか幸せにしてくださいっ><!!

↑↑↑爆笑しましたっ(^0^))
でも、fateも可愛いのは優ちゃんっだけだからぁ。
・・・が、可愛さ余ってこれでもか、ってくらいヒドイことされてるけど(^^;
はははは。

たつひこさん、スルドイ。
これは束の間の平和なのさ~
#2188[2012/06/08 16:50]  fate  URL 














管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


  ↑記事冒頭へ  
←虚空の果ての青 (神秘) 30    →虚空の果ての青 (陰謀) 32