優は、見ず知らずの男と話すという恐怖よりも、樹を失う恐怖により強く支配され、それほど躊躇わずに書かれていた番号に生まれて初めてダイヤルしてみた。
すぐに探偵事務所を名乗る相手が電話に出た。優は、何を言っていいのか分からずに「あの…」と言ったきり沈黙する。しかし、相手はすぐに優だと分かったらしかった。言葉巧みに優を脅し、その子に会わせてあげると彼女を屋敷の外へと誘い出した。
てっきり優は、そこへその子がやって来るのだと思っていた。
そう、樹に会うために。
その前に、優は彼女に会わなければならなかった。どうしても。そして、樹を取らないでと、お願いしたかった。それしか、まったく頭にはなかったのだ。
そして。
優は、誘導されるままふらふらと外へ出て、近づいてきた車の男たちにいきなり捕らわれたのだ。
複数の男に押さえつけられ、優は恐怖で意識を失った。樹の名を心で叫びながら。
次に気がついたとき、優は薄暗い埃とカビの匂いが充満する冷たいコンクリートの上だった。両手を後ろに縛られて、口をガムテープのようなものでふさがれていた。
近くに人の気配がして、彼女はぞっと怯える。
話し声とイラついた罵声。そして、すぐ背後に明らかに一人、誰かがいた。目を開けても彼女はまったく身動きをしなかったので、意識が戻ったことは気付かれていないようだった。
「いつまで、ここで待機していれば良いんだ?」
「迎えはすぐに来る手はずになってる。そしたら、俺たちの仕事はそこまでだ。このお人形さんをどうするのか、関係ない。とにかく、生かしておけ」
「こんなことして、本当に大丈夫なんだろうな? だいたい、気づかれずに拉致出来る手筈だったんじゃないのか? 顔を見られて、あれだけ騒ぎになってしまった! 調べられたら俺たちのことも分かるじゃないかっ」
「声が大きい。落ち着けよ。…顔を見られたって言っても、正体が知れている訳じゃない。このガキが生きて依頼主の手に渡ればもう証拠は何も残らないんだ」
「人身売買に関わったなんて、…もう終わりだ!」
「俺らが請け負った仕事はここまでだ。やつらがその後どうしようが知ったことじゃないんだよ。俺たちは何も知らなかったんだ。聞かれたって知ったこっちゃないんだ」
男は繰り返す。知ったことじゃない、とイライラと口にすること自体、優がどうなるのか彼は知っているのだ。優の誘拐を要求してきた組織が、実は樹の身内、マクレーン財団の関係組織だと薄々は気づいていた。しかし、それが分かったときには、もう手を引くことの出来ない渦中に関わってしまっていた。日本ではまっとうな企業でしかないその親財団は実はマフィアの表の顔だと知ったときには震えが走った。この子がマフィアの手に渡るということは。その後、樹がどれだけ優の行方を追っても、たとえ、発見出来たとしても、そのときにはこの子はもう生きてはいまい、と男たちは思う。
商品として使えなくなればゴミのように捨てられて、どこかの廃屋で、道端でその短い生涯を閉じることになるだろう。
彼らの目的は、樹に対する最大限の精神的ダメージを与えることらしい。もはや、取り引き、という段階ではないのだ。そんな風に急がざるを得ない事態が何か、彼らには起こっているのだろうが、そこまでは関知したくはなかった。
早々にこの件からは手を引きたかった。
ひそひそ交わされる不穏な会話に、いったい、ここはどこだろう? と優は思う。
この男たちは誰で、自分をどうしようというのか?
息苦しかった。不用意な口のふさがれ方で、優の身体は酸欠に喘いでいた。次第に頭がぼうっとなってくる。
いつき。
優は、ただ、彼の名を想う。
いつき…、いつき…。
その名の響きがともすれば消え入りそうな優の心を支えていた。
こんなことになったのは、何よりも自分の浅はかさが原因だと、優にも分かっていた。どうして、もっとしっかり確かめなかったのだろう? 世間知らずの自分が、勝手に動いてどうにかなる筈など、なかったのだ。
このまま、樹に会えなくなるかもしれない、という思いに、優は初めて事態を把握する。
男に身体を好きにされることよりも、暴力を受けることよりも、優は、樹にもう会えないかもしれないという恐怖に身体がすうっと冷えていく。
彼が、誰を愛していても良い。
もしかして、もう抱きしめてくれなくても良い。
見ていたい。
そばにいて、その笑顔を見ていたい。
たとえ、それが自分に向けられたものでなくても。
次第に朦朧となる意識の中で、優はただ願った。
そのとき、不意に遠くで何か轟音がする。男たちに緊張が走り、優の背後にいた男が、彼女の身体をぐいっと抱え上げた。
その乱暴な、まるでモノを抱えるような腕の感触に、優は呻き声をあげ、男は優の意識が戻っていたことを知る。男は彼女の首を掴んで低い声で命令する。
「声を出すな。大人しくしていろ」
聞いたことのない声だった。電話の相手ではない。
その固い大きな指の感触に、優は気を失いそうになる。それを必死で押し留めて、彼女はもがくのをやめ、体力を温存する。
すぐに大きな音がして、光が一面を満たした。空気が動き、人の叫び声のようなものが喧騒と共に起こり、優は眩しさに目がくらみながらもどこかの扉が開けられたことを知る。鹿島の配下が数人、表から突入したところだった。
「近づくな! こいつを殺すぞ!」
優を抱えている男が、優の首にナイフを突きつける。苦しくて頭がぼんやりとしている上に、乱暴に揺すぶられて優は意識が危うくなっていた。
ぐったりと男の腕に抱えられている優は、蒼白な顔色で、死んだように動かない。
車に乗っていた3人がそのままそこにいた。それを確認し、桜木は、取引相手らしき一団がこちらに向かっているとの情報を得て、その前になんとか優を奪い返そうとしていた。まだ、人質を死なせる訳には決していかないだろうことに賭けていたのだ。
鹿島の部下が、じりじりと男たちと間合いを詰めている。それを裏の窓から覗き見ながら、桜木は優の命の危機を感じる。身体が丈夫ではない、と聞いていた。そして、極度の男性アレルギー。こんな状況に耐えうる体力を彼女は持っていないに違いない。
前方の数人にすべての注意を向けている男たちの背後の窓を叩き割り、桜木は中へ飛び込んだ。
その音に驚いて、優を抱えていた男が振り返り、他の二人の注意もそれた。その一瞬を見逃さず、鹿島の部下数名は一斉に誘拐犯に飛び掛り、他の二人を押さえつけた。優を抱えていた男は慌てて優を連れ去ろうと走り出す。桜木は胸ポケットから取り出したナイフを躊躇いもなく男の背中へ放った。切っ先の鋭いそれは、場所を誤れば致命傷にもなりかねなかったが、幸い、それは彼の肩に突き刺さり、優を抱えていた腕の力が緩んだ。呻き声を上げてスピードを落とした男に追いつき、彼は振り返って優を盾にしようとした男の喉元にもう一本のナイフを押し当てた。そして、男の腕から優を奪い返し、その横っ面を殴り飛ばす。
「さっきのお礼だ」
殴られて吹っ飛んだ男を見下ろして桜木はにやりと笑い、優の口を塞いでいたテープを丁寧に外し、縄を切る。
「お嬢さん、大丈夫ですか?」
桜木の声を、優は深い闇の底で、遠く聞いたような気がした。
すぐに探偵事務所を名乗る相手が電話に出た。優は、何を言っていいのか分からずに「あの…」と言ったきり沈黙する。しかし、相手はすぐに優だと分かったらしかった。言葉巧みに優を脅し、その子に会わせてあげると彼女を屋敷の外へと誘い出した。
てっきり優は、そこへその子がやって来るのだと思っていた。
そう、樹に会うために。
その前に、優は彼女に会わなければならなかった。どうしても。そして、樹を取らないでと、お願いしたかった。それしか、まったく頭にはなかったのだ。
そして。
優は、誘導されるままふらふらと外へ出て、近づいてきた車の男たちにいきなり捕らわれたのだ。
複数の男に押さえつけられ、優は恐怖で意識を失った。樹の名を心で叫びながら。
次に気がついたとき、優は薄暗い埃とカビの匂いが充満する冷たいコンクリートの上だった。両手を後ろに縛られて、口をガムテープのようなものでふさがれていた。
近くに人の気配がして、彼女はぞっと怯える。
話し声とイラついた罵声。そして、すぐ背後に明らかに一人、誰かがいた。目を開けても彼女はまったく身動きをしなかったので、意識が戻ったことは気付かれていないようだった。
「いつまで、ここで待機していれば良いんだ?」
「迎えはすぐに来る手はずになってる。そしたら、俺たちの仕事はそこまでだ。このお人形さんをどうするのか、関係ない。とにかく、生かしておけ」
「こんなことして、本当に大丈夫なんだろうな? だいたい、気づかれずに拉致出来る手筈だったんじゃないのか? 顔を見られて、あれだけ騒ぎになってしまった! 調べられたら俺たちのことも分かるじゃないかっ」
「声が大きい。落ち着けよ。…顔を見られたって言っても、正体が知れている訳じゃない。このガキが生きて依頼主の手に渡ればもう証拠は何も残らないんだ」
「人身売買に関わったなんて、…もう終わりだ!」
「俺らが請け負った仕事はここまでだ。やつらがその後どうしようが知ったことじゃないんだよ。俺たちは何も知らなかったんだ。聞かれたって知ったこっちゃないんだ」
男は繰り返す。知ったことじゃない、とイライラと口にすること自体、優がどうなるのか彼は知っているのだ。優の誘拐を要求してきた組織が、実は樹の身内、マクレーン財団の関係組織だと薄々は気づいていた。しかし、それが分かったときには、もう手を引くことの出来ない渦中に関わってしまっていた。日本ではまっとうな企業でしかないその親財団は実はマフィアの表の顔だと知ったときには震えが走った。この子がマフィアの手に渡るということは。その後、樹がどれだけ優の行方を追っても、たとえ、発見出来たとしても、そのときにはこの子はもう生きてはいまい、と男たちは思う。
商品として使えなくなればゴミのように捨てられて、どこかの廃屋で、道端でその短い生涯を閉じることになるだろう。
彼らの目的は、樹に対する最大限の精神的ダメージを与えることらしい。もはや、取り引き、という段階ではないのだ。そんな風に急がざるを得ない事態が何か、彼らには起こっているのだろうが、そこまでは関知したくはなかった。
早々にこの件からは手を引きたかった。
ひそひそ交わされる不穏な会話に、いったい、ここはどこだろう? と優は思う。
この男たちは誰で、自分をどうしようというのか?
息苦しかった。不用意な口のふさがれ方で、優の身体は酸欠に喘いでいた。次第に頭がぼうっとなってくる。
いつき。
優は、ただ、彼の名を想う。
いつき…、いつき…。
その名の響きがともすれば消え入りそうな優の心を支えていた。
こんなことになったのは、何よりも自分の浅はかさが原因だと、優にも分かっていた。どうして、もっとしっかり確かめなかったのだろう? 世間知らずの自分が、勝手に動いてどうにかなる筈など、なかったのだ。
このまま、樹に会えなくなるかもしれない、という思いに、優は初めて事態を把握する。
男に身体を好きにされることよりも、暴力を受けることよりも、優は、樹にもう会えないかもしれないという恐怖に身体がすうっと冷えていく。
彼が、誰を愛していても良い。
もしかして、もう抱きしめてくれなくても良い。
見ていたい。
そばにいて、その笑顔を見ていたい。
たとえ、それが自分に向けられたものでなくても。
次第に朦朧となる意識の中で、優はただ願った。
そのとき、不意に遠くで何か轟音がする。男たちに緊張が走り、優の背後にいた男が、彼女の身体をぐいっと抱え上げた。
その乱暴な、まるでモノを抱えるような腕の感触に、優は呻き声をあげ、男は優の意識が戻っていたことを知る。男は彼女の首を掴んで低い声で命令する。
「声を出すな。大人しくしていろ」
聞いたことのない声だった。電話の相手ではない。
その固い大きな指の感触に、優は気を失いそうになる。それを必死で押し留めて、彼女はもがくのをやめ、体力を温存する。
すぐに大きな音がして、光が一面を満たした。空気が動き、人の叫び声のようなものが喧騒と共に起こり、優は眩しさに目がくらみながらもどこかの扉が開けられたことを知る。鹿島の配下が数人、表から突入したところだった。
「近づくな! こいつを殺すぞ!」
優を抱えている男が、優の首にナイフを突きつける。苦しくて頭がぼんやりとしている上に、乱暴に揺すぶられて優は意識が危うくなっていた。
ぐったりと男の腕に抱えられている優は、蒼白な顔色で、死んだように動かない。
車に乗っていた3人がそのままそこにいた。それを確認し、桜木は、取引相手らしき一団がこちらに向かっているとの情報を得て、その前になんとか優を奪い返そうとしていた。まだ、人質を死なせる訳には決していかないだろうことに賭けていたのだ。
鹿島の部下が、じりじりと男たちと間合いを詰めている。それを裏の窓から覗き見ながら、桜木は優の命の危機を感じる。身体が丈夫ではない、と聞いていた。そして、極度の男性アレルギー。こんな状況に耐えうる体力を彼女は持っていないに違いない。
前方の数人にすべての注意を向けている男たちの背後の窓を叩き割り、桜木は中へ飛び込んだ。
その音に驚いて、優を抱えていた男が振り返り、他の二人の注意もそれた。その一瞬を見逃さず、鹿島の部下数名は一斉に誘拐犯に飛び掛り、他の二人を押さえつけた。優を抱えていた男は慌てて優を連れ去ろうと走り出す。桜木は胸ポケットから取り出したナイフを躊躇いもなく男の背中へ放った。切っ先の鋭いそれは、場所を誤れば致命傷にもなりかねなかったが、幸い、それは彼の肩に突き刺さり、優を抱えていた腕の力が緩んだ。呻き声を上げてスピードを落とした男に追いつき、彼は振り返って優を盾にしようとした男の喉元にもう一本のナイフを押し当てた。そして、男の腕から優を奪い返し、その横っ面を殴り飛ばす。
「さっきのお礼だ」
殴られて吹っ飛んだ男を見下ろして桜木はにやりと笑い、優の口を塞いでいたテープを丁寧に外し、縄を切る。
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