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Stories of fate


虚空の果ての青 第二部

虚空の果ての青 (罪の在処) 8

 話し終えた勲は、たまっていた毒素を吐き出したように、大きく息をついた。

 これで、やっと優から自由になれる…。
 勲の疲れ果てた目が、そう言っていた。その目にはもう狂気を宿した残忍な光はなく、カーチャに出会う前の、ただ、大人しく優しい青年のものに戻っていた。

「あんたが、優を実子として籍に入れ直そうが、養子にしようがオレは関知しない」

 彼は、聞く体勢に入って優を抱いたままソファに腰を下ろしていた樹を見つめて言った。

「あんたが優を一生面倒みてくれるなら、それでも良いと思う。オレは…優が、あんたに出会うまで、どうしても離れられなかった。幸せを見届けなければならなかった。そして、優を見るとオレはおかしくなってしまうんだ。…あとはもう、あんたの好きにしてくれて良い。オレはもう二度と優に関わることはない」

 次第に泣き声に変わって、彼はそう言って涙を零した。

 やがて、学校側が連絡を入れたらしい、警察が現れて彼を連れて行こうとしたとき、彼は最後に振り返って、樹の腕の中に眠る優をじっと見つめた。それは、父親として彼女の人生に関わった男の、切なくも穏やかな瞳だった。



 病院で目覚めた優は、初め、自分がどこにいるのかさっぱり分からなかった。
 心配そうな、泣きそうな樹の顔がそばにあって、優は何かがちくりと心に刺さるのを感じる。

 それは、小さいくせに鋭い痛みで、優の心臓を止めてしまうのではないかと思われるほど、切なく苦しく、深かった。

 彼の手が、優の包帯だらけの手を握ってくれていた。寒い、と感じていたのに、樹が触れている指先と手の平だけがほかほかあったかかった。

「いつき?」

 身体の記憶が彼を求めて、ほとんど無意識に優はその名を口にする。

「そうだよ」

 彼の声が優しく答える。

「…痛い」
「どこが痛むの?」

 一瞬、苦痛に顔をゆがめた優に、樹は心配そうな顔をする。樹のそんな表情をあまり見たことがなかった。彼はいつもちょっと意地悪な笑みで優を見下ろしていたし、いつでもただ優しく笑ってくれていた。

「痛い」

 暴行を受けた身体の痛みではなかった。優は、心が、心臓がずきっと音を立てていた。そして、その痛みに、徐々に記憶が蘇ってくる。
 勲に会ったこと。父に連れまわされ、小さな廃屋で暴行を受けたこと。そして。

「いつき?」

 そうだ、彼にはもう会えないと思ったのだ。あの電話で、さよならを言わなければならないと思ったのだ。それは、彼女の心臓を止めてしまうのではないかと思われるほどの大きな痛みだった。幸せを感じたのは、つかの間の夢にすぎなかった。それを突きつけられた瞬間の。

 そして、優は生まれて初めて「死にたい」と言葉にして思ったのだ。
 本当は、ずっとずっとその思考は自分の中に潜んでいたのだと、共に在ったのだと知った。

「優ちゃん!」

 みるみる泣き顔に変わった優の表情に、樹は彼女の心の動きを察知してその手に力をこめる。

「いやあぁあ~っ」

 優は悲鳴をあげて暴れる。それまで、何度かこうやって保護されて病院で目覚めることがあっても、優は目覚めても何の反応も示さなかった。周囲の思惑にも心配にも一切関心を払わず、自らの怪我にも痛みにも無関心だった。だから、施設長も病院側もあまり注意を払っていなかった。

 しかし、今回は今までとまったく事情が違う。それを分かっていたのは樹一人だけだった。

「優ちゃん、暴れちゃダメ! 優ちゃんっ」

 樹の声に、優は無意識にびくりと反応する。

「桐嶋さん? どうしました?」

 優の悲鳴と騒ぎに、やっと看護師が現れて、泣いている優を一緒になだめてくれた。そして優が暴れた拍子に外れた点滴を直しながら、安定剤を投与してくれる。

「イヤだ、いつき…。もう会えないのはイヤ…。イヤ…!」

 次第に朦朧としてくる意識の中で、優はぽろぽろと涙を零して握ってくれている樹の手を必死に握り返す。

「どうしてもう会えないの? 俺はここにいるよ」
「だって…」

 だって、私は父さんにまた抱かれてしまった。もう、誰にもそういうことさせないって約束したのに。
それに、ああ。

 私は、悪い子なんだ。父さんのことも苦しめて、泣かせてばかりいた。怒らせてばかりいた。それは私が悪い子だから。悪い子は罰を受けないといけない。

 それらのことを勲が暴力をふるいながら自らへの言い訳のように優に向かって吐き出し、優自身がそう思い込むに至っていた。それは優の深く暗い呪縛だった。

「私は…もう…」

 いなくなってしまえば良いんだ。そうすれば、もう、誰も苦しまない。誰も傷つかない。私も、もう痛みに耐える必要はなくなる。

 もっと、早くそうするべきだった。
 樹に出会ってしまう前に。楽しいことを知ってしまう前に。樹を好きだと気付いてしまう前に…。

 優は、半分も言葉を紡いではいなかったのに、樹には手に取るように分かる気がした。優の心の叫びが。耐え切れない痛みにあげる悲鳴が。死を望む深い絶望の闇が。

 樹は、虚ろな瞳で彼を見上げる優に静かに言う。

「優ちゃん、言っただろ? 君はもう俺から逃げられないんだよ。君をどうするかは、君が決めることじゃない。俺が決めるんだ。だから、君は余計なことを考えなくて良い。俺の言うことを聞いていれば良いんだよ。分かる?」

 薄れゆく意識の中で、樹の言葉は呪文のように優の心にしみてきた。他の一切の刺激を排除した状態で刷り込まれたそれは、優の弱った心を一瞬で支配した。それは、優が唯一信じている相手の声で、他に何も要らないほど切なく求めている相手の言葉だったから。薬の作用で再び眠りに落ちていきながら、樹の言葉は、それまでの呪縛をしのぐ強い暗示となって、優の心に深く沈んでいった。
 


 ‘君をどうするかは俺が決める’
 それはある意味、本当のことだった。何故なら、樹は‘父親’なのだから。

 それは法的な問題をはらみ、道徳的な概念を包括し、遺伝学的な問題、相続の問題、そして、優の、それから樹自身の心情的な事情など、いろいろな問題をこれ以上ないくらい抱えていた。

 しかし、どうするのかは樹はもうほぼ決めていた。
 あとは、それに付随する問題をどう処理していくか。それに尽きる。その為に、鹿島はすでに動き回っていた。



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