鹿島との約束の時間までまだ少し間があった。
窓の外を見下ろして、優は人々が賑やかに行きかう年末の華やいだ空気を映画の画面のように思う。優にはずっと縁のない世界だった。そして、それはこれからも変わらない、と彼女はぼんやり思う。
好きな人と、或いは気の合う友達と街へ出かけて、買い物をしたり、食事をしたり。そして、恋をして結婚し、子どもを産んで育てていく。そんな世界は優の人生の中に想定されてはいなかった。
生理がマトモにくるかどうかすら分かりません。
そう告げる医師の言葉を、優は眠りの中で聞いていた。
将来、妊娠・出産は望めないでしょう。子宮の機能がもう、ボロボロで…、と言葉を濁す医師の静かな声。父親から引き離され、施設に送られる前に受けた検診で、施設の職員に告げられた言葉だった。
そこに何の感慨も浮かばなかったし、そんなことはそのとき、優にとってどうでも良いことだった。
お母さんは、お前が悪い子だから、いなくなってしまったんだ…。
それが本当なのか嘘なのか、そもそも、母親が本当にいたのかすら分からなくても、優の父親はそう言って彼女を責めた。
人生に何を望んでいたのか、渇きを潤してくれる何を渇望していたのか。すっかり諦めきっていた彼女は、もう、望みを抱くことにすら疲れ果てていた。
だから。本当は、意識にのぼらないだけ。考えないようにしていただけ。
優は、いつでも「死にたかった」のかも知れない。
ゲームの最中、初めて優は少しどきどきした。楽しいという感覚を身体で体験した。身体のだるさが気にならないほど、目の前のことに集中していた。
樹が笑ってくれるから。
それで良いよ、上手だよ、と笑ってくれるから。
「こっちにおいで、優ちゃん」
どこかぼんやりとしてしまっている優の背中を少し心配そうに見て、樹は声をかける。ベッドに横になって、彼は片肘を立てている。優は振り返って素直に言葉に従い、樹の腕の中にもぐりこんでくる。
「少し休みなさい。今日はこれから、一日がまだ長いからね」
「…一日が、長い?」
「そう。眠くなってもしばらく眠れる状況じゃないってことさ。まぁ、仮眠は少し取ったけど、身体は休めておいた方が良いよ」
優は少し不安そうな顔をする。一日が長いとは? 意味を考えあぐねる。それでも、樹のそばでまどろむのは気持ちが良かった。いや、いつもは、それで幸せだった。
「無理に眠らなくても良いから、休みな」
樹の大きな手が優の髪を撫でる。優は、彼の胸に顔をうずめた。樹の腕が彼女の身体をふわりと包み込み、その温かさに優はとろりとまどろむ。とりあえず、ここにいる間だけは、何も思い煩う必要はない、と。
「良い子だね、優ちゃん」
良い子、という言葉の響きを夢のように味わう。
‘オ前ハ、悪イ子ダカラ…’
そう‘男’の声が再び蘇って、きりり、と心臓が痛む。細い、鋭い痛みで、優は一瞬身体が硬直する。悪い子だから、痛みを受けるのだと、幼い優に植えつけられた歪んだ常識。支配者側の勝手な理屈。
樹が、優が悪い子だと、だから、もう要らないと言ったらどうしよう? と、突如、優はすがりついた胸の中で怯える。
怖いよう…。
「…優ちゃん? どうしたの?」
身体を硬くして小さく震える優に気がついて、樹は優の身体をぎゅっと抱き寄せる。何をすれば悪い子なのか、何をしたから殴られるのか、優には分からないことが多々あった。絶えず父親の顔色を窺い、息をひそめて暮らしていた。だから、優はどうすれば樹に嫌われないのか、どうすればそばにいてくれるのか、それが今でも曖昧なのだ。
施設に収容されてもしばらくは、優はマトモに他人と口をきくことすら出来なかった。食べ物を与えてくれる人は、イコール優にとっては怖い人だったのだ。
優の身体に、痛みでなく触れてくれる人、という存在は預けられていた託児所の先生方や保育園の先生方、そういう人々に限られていて、彼らがいたから優は辛うじて生きていたのだ。人肌のぬくもりをそこで与えられたから。だけど、彼らは優を守ってくれる人でもなく、ずっと一緒にいてくれる人でもない。優一人を可愛がって気に掛けてくれる人々でもないのだ。先生は、みんなの先生で、先生だから優しくしてくれるということだ。優を優として愛してくれたわけではなかった。沢山の可哀相な子ども達がいっぱいで、先生方も一人にかける時間はそう多くは取れなかったのだろう。
意思表示をマトモに出来ない優は、どんなに寂しくても、痛みに震える夜も、ただ黙って耐えるしかなかった。そしてそれを悲しいとも悔しいとも思わなかった。優にとって、それはいつもの当たり前のことだったから。
だけど、樹が、優を見て、優だけに優しくしてくれることに、彼女は驚いて、そして怯えてもいた。その腕の中が心地良くて、あったかくて、幸せに震える刹那、樹も先生方のように、もう、さよならだよ、と告げる日が来るような気がして、優は怖かった。怖いと思えば、意識せずとも過去の悪夢が身体に蘇るのだ。
「怖いよぅ」
いつもなら、抱きしめる腕のなかで安心して眠りに落ちるのに、その日は、優はひたすら震えていた。
人に優しくされた後、恐らくは先生方に抱いてもらっていた後、迎えにきた‘男’に否応なく引き渡される瞬間の恐怖を、身体がまだ覚えているのかもしれない。
ほんの僅かの幸せな瞬間の後、もっとひどいことが待っているのだと。
雅子と遊んだ興奮が、優の中にそういう化学反応を引き起こしてしまったのだろうか。
樹は、ふと優の肌に触れて、一瞬、そのあまりの冷たさにぞっとする。慌てて優の服を脱がせて彼のローブの中に一緒に包み込んでやる。そして、彼は身体がこわばって急激に体温が下がっている優の全身をぎゅうっとただ抱きしめた。
初め、ほとんど反応のなかった優の身体が、樹の手が柔らかくその背中や腰をさするように撫でているうちに次第に温かくなってくる。優の手が樹の胸にすがりついてきて、その手が小さく震える。
優の心が、今、ここにないことを樹は感じた。彼女の瞳は、樹を見ていなかった。優が、明確に樹に何かを願ったことがない、ということと、今、優は何か目に見えないものから逃れたくて必死に彼にすがりついていることが感じられた。
優の心は今、過去の悪夢の闇に引き戻されてしまっている。それだけがなんとなく分かった。しかし、それがどうしてなのか、樹には分からない。しかし、何故だろう。そこから優を引き戻すためにどうするべきか、彼は分かるような気がした。
言葉では伝わらない。優は、世界とつながる方法を他に知らない。
「ぁ…っ」
小さく優が声をあげ、身体の奥が震えるのが分かった。思わず優は樹の背にしがみつく。痛みをこらえる切ない表情に、樹は「耐えられる?」と聞いた。
「んっ…くぅぅっ」
ぎゅっと目を閉じて、優は小さく首を振る。しがみついている手に力がこもり、しっとりと湿っていた。
「やめようか?」
樹がふっと動きを止めると、優はイヤだと首を振る。そうやって深く身体を繋ぐ瞬間しか、優は信じられるものがないのだろう。
次第に優の中は緩んで、濡れてくる。それに伴って、優の肌も温まってきた。
樹がほとんど動いていないのに、優は自分の中にいる彼を感じて、その悦びに痙攣が貫いた。それはちょうど、眠っていた小鳥達が一斉に羽ばたき、飛び立った瞬間に似ていた。
言葉では何も伝わらない。
身体で感じる‘想い’の塊を全身で受け取って、反芻して心に留める。そうやって確認しないと優は安心出来ないのだ。
身体に残る恐怖の爪あとから、逃れられない。そして、今、傷口から流れ続ける血を止められるのは、樹の甘い抱擁だけだった。きゅううっと樹を抱きしめて震えた細い腰を抱いて、優の瞳に浮かぶ虚空の果ての青い色を見る。樹はその愛しさに、ぎゅっと胸をつかまれたような熱さを抱いた。
「君は、ほんとに可愛いね」
額に口づけを落とすと、浅かった優の呼吸は、すうすうと安らかな寝息に変わった。
樹はそっと身体を離し、ベッドから下りた。そして、窓の外の景色を見下ろし、先ほど、優が何を想ったのかと追ってみる。しかし、眼前に広がるのは見慣れた何の変哲もない町の風景。
彼には分からなかった、優の心に巣食う闇の正体を。
窓の外を見下ろして、優は人々が賑やかに行きかう年末の華やいだ空気を映画の画面のように思う。優にはずっと縁のない世界だった。そして、それはこれからも変わらない、と彼女はぼんやり思う。
好きな人と、或いは気の合う友達と街へ出かけて、買い物をしたり、食事をしたり。そして、恋をして結婚し、子どもを産んで育てていく。そんな世界は優の人生の中に想定されてはいなかった。
生理がマトモにくるかどうかすら分かりません。
そう告げる医師の言葉を、優は眠りの中で聞いていた。
将来、妊娠・出産は望めないでしょう。子宮の機能がもう、ボロボロで…、と言葉を濁す医師の静かな声。父親から引き離され、施設に送られる前に受けた検診で、施設の職員に告げられた言葉だった。
そこに何の感慨も浮かばなかったし、そんなことはそのとき、優にとってどうでも良いことだった。
お母さんは、お前が悪い子だから、いなくなってしまったんだ…。
それが本当なのか嘘なのか、そもそも、母親が本当にいたのかすら分からなくても、優の父親はそう言って彼女を責めた。
人生に何を望んでいたのか、渇きを潤してくれる何を渇望していたのか。すっかり諦めきっていた彼女は、もう、望みを抱くことにすら疲れ果てていた。
だから。本当は、意識にのぼらないだけ。考えないようにしていただけ。
優は、いつでも「死にたかった」のかも知れない。
ゲームの最中、初めて優は少しどきどきした。楽しいという感覚を身体で体験した。身体のだるさが気にならないほど、目の前のことに集中していた。
樹が笑ってくれるから。
それで良いよ、上手だよ、と笑ってくれるから。
「こっちにおいで、優ちゃん」
どこかぼんやりとしてしまっている優の背中を少し心配そうに見て、樹は声をかける。ベッドに横になって、彼は片肘を立てている。優は振り返って素直に言葉に従い、樹の腕の中にもぐりこんでくる。
「少し休みなさい。今日はこれから、一日がまだ長いからね」
「…一日が、長い?」
「そう。眠くなってもしばらく眠れる状況じゃないってことさ。まぁ、仮眠は少し取ったけど、身体は休めておいた方が良いよ」
優は少し不安そうな顔をする。一日が長いとは? 意味を考えあぐねる。それでも、樹のそばでまどろむのは気持ちが良かった。いや、いつもは、それで幸せだった。
「無理に眠らなくても良いから、休みな」
樹の大きな手が優の髪を撫でる。優は、彼の胸に顔をうずめた。樹の腕が彼女の身体をふわりと包み込み、その温かさに優はとろりとまどろむ。とりあえず、ここにいる間だけは、何も思い煩う必要はない、と。
「良い子だね、優ちゃん」
良い子、という言葉の響きを夢のように味わう。
‘オ前ハ、悪イ子ダカラ…’
そう‘男’の声が再び蘇って、きりり、と心臓が痛む。細い、鋭い痛みで、優は一瞬身体が硬直する。悪い子だから、痛みを受けるのだと、幼い優に植えつけられた歪んだ常識。支配者側の勝手な理屈。
樹が、優が悪い子だと、だから、もう要らないと言ったらどうしよう? と、突如、優はすがりついた胸の中で怯える。
怖いよう…。
「…優ちゃん? どうしたの?」
身体を硬くして小さく震える優に気がついて、樹は優の身体をぎゅっと抱き寄せる。何をすれば悪い子なのか、何をしたから殴られるのか、優には分からないことが多々あった。絶えず父親の顔色を窺い、息をひそめて暮らしていた。だから、優はどうすれば樹に嫌われないのか、どうすればそばにいてくれるのか、それが今でも曖昧なのだ。
施設に収容されてもしばらくは、優はマトモに他人と口をきくことすら出来なかった。食べ物を与えてくれる人は、イコール優にとっては怖い人だったのだ。
優の身体に、痛みでなく触れてくれる人、という存在は預けられていた託児所の先生方や保育園の先生方、そういう人々に限られていて、彼らがいたから優は辛うじて生きていたのだ。人肌のぬくもりをそこで与えられたから。だけど、彼らは優を守ってくれる人でもなく、ずっと一緒にいてくれる人でもない。優一人を可愛がって気に掛けてくれる人々でもないのだ。先生は、みんなの先生で、先生だから優しくしてくれるということだ。優を優として愛してくれたわけではなかった。沢山の可哀相な子ども達がいっぱいで、先生方も一人にかける時間はそう多くは取れなかったのだろう。
意思表示をマトモに出来ない優は、どんなに寂しくても、痛みに震える夜も、ただ黙って耐えるしかなかった。そしてそれを悲しいとも悔しいとも思わなかった。優にとって、それはいつもの当たり前のことだったから。
だけど、樹が、優を見て、優だけに優しくしてくれることに、彼女は驚いて、そして怯えてもいた。その腕の中が心地良くて、あったかくて、幸せに震える刹那、樹も先生方のように、もう、さよならだよ、と告げる日が来るような気がして、優は怖かった。怖いと思えば、意識せずとも過去の悪夢が身体に蘇るのだ。
「怖いよぅ」
いつもなら、抱きしめる腕のなかで安心して眠りに落ちるのに、その日は、優はひたすら震えていた。
人に優しくされた後、恐らくは先生方に抱いてもらっていた後、迎えにきた‘男’に否応なく引き渡される瞬間の恐怖を、身体がまだ覚えているのかもしれない。
ほんの僅かの幸せな瞬間の後、もっとひどいことが待っているのだと。
雅子と遊んだ興奮が、優の中にそういう化学反応を引き起こしてしまったのだろうか。
樹は、ふと優の肌に触れて、一瞬、そのあまりの冷たさにぞっとする。慌てて優の服を脱がせて彼のローブの中に一緒に包み込んでやる。そして、彼は身体がこわばって急激に体温が下がっている優の全身をぎゅうっとただ抱きしめた。
初め、ほとんど反応のなかった優の身体が、樹の手が柔らかくその背中や腰をさするように撫でているうちに次第に温かくなってくる。優の手が樹の胸にすがりついてきて、その手が小さく震える。
優の心が、今、ここにないことを樹は感じた。彼女の瞳は、樹を見ていなかった。優が、明確に樹に何かを願ったことがない、ということと、今、優は何か目に見えないものから逃れたくて必死に彼にすがりついていることが感じられた。
優の心は今、過去の悪夢の闇に引き戻されてしまっている。それだけがなんとなく分かった。しかし、それがどうしてなのか、樹には分からない。しかし、何故だろう。そこから優を引き戻すためにどうするべきか、彼は分かるような気がした。
言葉では伝わらない。優は、世界とつながる方法を他に知らない。
「ぁ…っ」
小さく優が声をあげ、身体の奥が震えるのが分かった。思わず優は樹の背にしがみつく。痛みをこらえる切ない表情に、樹は「耐えられる?」と聞いた。
「んっ…くぅぅっ」
ぎゅっと目を閉じて、優は小さく首を振る。しがみついている手に力がこもり、しっとりと湿っていた。
「やめようか?」
樹がふっと動きを止めると、優はイヤだと首を振る。そうやって深く身体を繋ぐ瞬間しか、優は信じられるものがないのだろう。
次第に優の中は緩んで、濡れてくる。それに伴って、優の肌も温まってきた。
樹がほとんど動いていないのに、優は自分の中にいる彼を感じて、その悦びに痙攣が貫いた。それはちょうど、眠っていた小鳥達が一斉に羽ばたき、飛び立った瞬間に似ていた。
言葉では何も伝わらない。
身体で感じる‘想い’の塊を全身で受け取って、反芻して心に留める。そうやって確認しないと優は安心出来ないのだ。
身体に残る恐怖の爪あとから、逃れられない。そして、今、傷口から流れ続ける血を止められるのは、樹の甘い抱擁だけだった。きゅううっと樹を抱きしめて震えた細い腰を抱いて、優の瞳に浮かぶ虚空の果ての青い色を見る。樹はその愛しさに、ぎゅっと胸をつかまれたような熱さを抱いた。
「君は、ほんとに可愛いね」
額に口づけを落とすと、浅かった優の呼吸は、すうすうと安らかな寝息に変わった。
樹はそっと身体を離し、ベッドから下りた。そして、窓の外の景色を見下ろし、先ほど、優が何を想ったのかと追ってみる。しかし、眼前に広がるのは見慣れた何の変哲もない町の風景。
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『花籠』シリーズ・総まとめ編

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花籠

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花籠 2

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花籠 3

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花籠 4

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儘 (『花籠』外伝)

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陰影 1(R-18)

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