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Stories of fate


虚空の果ての青 第一部

虚空の果ての青 (来訪者) 57

 大晦日。
 朝、目覚めて突然、今夜、除夜の鐘を聞きに行こうと樹が言い、優は、ぼうっとしたまま頷いた。昨日一日、大分眠った優は随分楽になっていた。

「鹿島が夕方迎えに来てくれるから、それまでちょっとゆっくりしよう」

 朝食を済ませて、樹はパソコンを立ち上げ、仕事机で今年最後の仕事をする。優は、何の気なしに経済学の本を引っ張り出して、ソファでそれを開いて読んでみる。

 それを、書類作成しながら横目で見ていた樹は、へえ、と思う。

「分からないところ、ある?」

 キーボードを叩きながら樹は優に話しかける。

「…うん」

 優は顔をあげて樹を見る。

「講義してあげようか?」

 優はちょっと考えて頷いた。

「ちょっと待っててね」

 樹は数分で送られてきた見積依頼書と添付文書の添削をして送信完了する。そして、優の隣にやってきて、優が開いているページを見て、まず、基本的な用語と基礎の話を始める。優は興味深そうに、樹の話を聞いている。もともと語彙はあるので、優は樹の話をかなり理解しているようだ。

 しばらく樹はちょっと本気になって、優に経済学を講義する。
 優は、心なしか目をきらきらさせて樹の話に聞き入る。それまで、学校の授業も、そこそここなしてはいた彼女だったが、それはそういう意欲があってのことではなかった。優に学習に対する‘欲’が芽生えたのは、初めてかもしれない。

 時々休憩を入れながら、なんとなく、その日の午前中は二人で真面目に勉強してしまった。優の理解力に、樹は感嘆する。

「君、頭良いね。どうりで成績良いはずだよね」

 樹はちょっと疲れてコーヒーを湧かす。
 一度、説明を受けたら、優は理解が進んでおもしろくなったらしく、本をどんどん読み進めていく。

「優ちゃん、もうそろそろ今日は終わりにしよう? あまり一気に根をつめちゃダメだよ」

 樹が後ろから声を掛けても、ほとんど聞こえてないらしく、優は本から顔をあげない。

「優ちゃん?」

 コーヒーを一口飲んで、樹は一息つく。優はまだ熱心に本から目をあげない。樹は微笑ましい気持ちになって彼女の小さな背中をしばらく見つめていた。そうやって、優は本の世界でしかのびのびと羽を広げることがなかったのだろう。そこは、誰にも邪魔されずに、すべての煩わしい現実から逃れて楽に息の出来る空間だったのだろう。

「優ちゃん、あとはまた次回だよ」
「ひゃあっ」

 優の手から本を取り上げ、背後から不意に抱きすくめられて驚いて声をあげた優の小さな輪郭を捉えて、樹は優の唇に優しいキスを落とす。

「今夜は夜中過ぎまで眠れないから、今の内に少し休んでおかないと」

 樹は言って、ソファの上の優を抱き上げる。まだ、頭の中のモードが経済学だった優は、言われた意味を理解するのに、時間がかかっていた。

「少し休んでおきなさい、優ちゃん」

 ベッドに下ろされて、ぽかんとした優は、珍しくふるふると首を振る。

「まだ、眠くない」
「そうかも知れないけど、仮眠をとってた方が良いよ。じゃないと、持たないよ」

 ちらりと、視線だけで優は取り上げられた本の行方を探す。

「ダメだよ、優ちゃん、今日はもうお仕舞い」

 それでも、優はまだどこか残念そうだった。素直に毛布にもぐり込んではみたものの、しばらく目を開けて樹が仕事に戻る様を見つめていた。

 そして、先ほど、優のためだけに説明してくれた経済用語や社会の仕組みや世の中の動きの話をうっとりと反芻する。樹の低くて静かな声が好きだと優は思う。樹は優を邪魔にしたりしないし、ごく自然に気に掛けてくれる。名前を呼んで抱きしめてくれる。

 ここは…存在を100%認められて受け入れられている優しい空間だった。
 それを肌で感じながら、優は次第に瞼が重くなってきた。
 やがて、すうすうと寝息が聞こえてきて、樹はくすりと笑う。

「本当によく寝る子だね」

 寝なさいと言ったのは彼なのに、樹は妙に感心して彼女の寝顔を見つめる。毛布の端を抱きしめた形でくるりと丸くなった優は、無心に眠りを貪っていた。

 人に懐かない野生動物が、人の前で熟睡することはないという。優にとっては未知の恐ろしい世界でしかなかったこの世の中に、彼女はようやく安心出来る居場所を得たのだろうか。

 そんな感慨を抱いたあと、樹はふと出掛ける前にシャワーを浴びようかと考えた。バスルームに向かおうとした途端、不意にドアチャイムが鳴る。

 鹿島にしては早すぎる…と、インターホンで確認すると、ドアの外には雅子がいた。

「…何の用?」

 不快さを露わにして、樹はインターホン越しに聞く。

「あなたにじゃないわ、優ちゃんに会いに来たのよ。開けてくれない?」

 ドアの外で騒がれても困るので、樹はため息を共にドアを開ける。雅子はいつもよりはラフな濃い青のワンピースを着てにこにこしていた。昔から彼女はそういう濃い色の服を好んで選ぶ。印象がキツイのはその鮮やかな色合いもあるだろうか、と樹は思う。優は、どちらかというと淡いパステルカラーしか似合わない。しかし、淡い髪と肌の色を際だたせるために、赤や黒もいつか着せてみたいとふと思った。

 彼女の家は、ホテルからそう離れてはいない。ちょっと思いついてふらりとやってきたという感じらしかった。

「優ちゃんは?」
「…寝てるよ」
「えっ? こんな時間に?」
「夜に出かける予定があってね。仮眠を取らせているんだよ」

 ふうん、と疑い深そうな視線を投げかけて雅子はつかつかと部屋へ入ってきた。彼女がこの部屋を訪れたのは過去に一度きり。それも、仕事のためだった。そのときも生活空間までは足を踏み入れなかったので、不用意に寝室サイドには立ち入ろうとはしない。

 ダイニング用の椅子に腰を下ろして、雅子は少し声をひそめた。

「貴方が眠らせた訳じゃないの?」
「どういう意味さ?」

 雅子は、いたずらな瞳でつっ立ったままの樹を見上げる。

「だって、抱いてるんでしょう? 立派な犯罪者よね」
「言ったろう? 余計なお世話だよ」
「まぁ、本気であんな幼い子を失神させるまで抱いたの? 優ちゃんは貴方を親とも慕っているってのに、ヒドイ話しだわ。可哀相に、虐待されている子ってのは、強制的に引き離されない限り、殺されてしまうまで‘親’から逃げ出せないのよ」
「虐待って…君ねぇ」

 明らかにムッとして、樹は眉をひそめる。

「まぁ、優ちゃんは虐待されているとは思ってないでしょう。巧妙に騙されているようだし」

 ふふふ、と笑って雅子は立ち上がる。

「優ちゃんの寝顔見ても良い?」
「ご自由に」

 呆れて、樹は仕事用のデスクに戻る。そうっと足音を忍ばせてベッドに歩み寄った雅子は、思わず感嘆の声をあげた。

「この間は初めてだったからそんなにジロジロ見られなかったけど、本当に、本気で可愛い子ね。うわぁ、睫毛が長い! そして、まるでお人形のようじゃない。貴方の理想を絵に描いたようだわ」

 その言葉をまったく無視して書類に視線を落としている樹に向かって、雅子はにっこり微笑む。

「貴方は、仕事に関することなら、それこそ老若男女問わず、誰の意見も丁寧に聞いて、どんな些細な情報もないがしろにしない出来た男なのに、こと、プライベートのことで口出しされるのは今でも我慢ならないみたいね」
「悪いかい?」
「少しは他人の意見も聞くものよ。特に、女には女同士にしか分からないことがあるものよ」
「…それで、君は何しに来たわけ? 優ちゃんは寝てるし、それを確認したら、もう、用は済んだだろう?」
「あら、コーヒー一杯くらいごちそうしてくれないの?」
「御免だね」

 不意に、ヒソヒソ交わされる人の話し声に優が目を開ける。そして、彼女に背を向けて立っている青いワンピースの人物の存在に驚いて、はっと全身が強張った。

「…いつき?」

 泣きそうに細い声が彼の名を呼ぶことに気付いて、樹ははっと優に視線を向ける。

「あら、優ちゃん、おはよう」

 雅子が微笑んで優に近づくと、優はびくりと身体を硬直させた。さっと青ざめた優の表情に気がついて、あらら…と雅子は差し出そうとした手を引っ込めた。これ以上近づいたら泣き出してしまいそうだった。

 樹が歩み寄って優の身体を抱くと、彼女は必死に彼にしがみついてきた。怯えた子どもが、母親の懐に隠れるようだ、と雅子は興味深く思う。やがて、優の顔から怯えた色が消えて、樹の腕の中から雅子をじっと見つめる好奇心を宿した子どもの目が覗く。

「こんにちは、優ちゃん。覚えているかしら?」

 優は小さく頷いた。

「一緒に遊ぼうと思って訪ねて来たんだけど、…どう?」
「一緒に遊ぶ…って、君…何考えてんの?」

 優を毛布ごと腕に抱いたまま、樹が呆れたように雅子を見つめる。

「ほら、ホテルにこもってたら退屈してるかなあ、と思って、トランプとか? カルタとりとかしようかと」
「本気で言ってるの?」
「そうよ。ほら、カードはちゃあんと用意してきたのよ」

 雅子は屈託なく笑って、バッグからトランプのカードを取り出して見せる。

 それを見て、樹は不意に懐かしい記憶が蘇る。彼女は、二人がほんの少しの期間付き合う前、まだ知り合った当時からそういうものを常に持ち歩き、いろんな場面で誰彼構わず遊びを仕掛ける人だった。

 変な女だなあ、と思って、樹は興味を抱いたのだ。そういうちょっと微笑ましくも変わった面を、強烈に思い出した。

「そんな、呆れた顔しないでよ。せっかくだから優ちゃんと遊んでみたかったの。会社に電話したら、鹿島さんが、貴方は休暇中だって言ってたから、優ちゃんと一緒なの? って聞いたら…」

 樹はぴくりと眉を動かす。

「教えてくれなかったけど、それって、絶対そうだからでしょう、と当たりを付けてね。ちょっと私も時間がぽっかり空いちゃって退屈だったし」
「それは君の側の問題だろう?」
「まあ、そう言わないでよ。コーヒー一杯いただいたら帰るから」

 樹が迷惑そうな表情をしているのにはお構いなしに、雅子は優に微笑みかける。

「カードゲームとかって、興味ないかしら?」

 優は二人の間に流れる微妙な空気に困って、樹を見上げる。その目が、やってみたい、と言っていた。樹に本は取り上げられてしまったし、雅子に対する印象が彼女にはそれほど悪くなかったのだろう。

「そうだね。暇な‘おばさん’の相手をしてやってくれる?」

 樹がため息をついて優を見下ろすと、雅子が、誰が‘おばさん’よ。失礼ね! と憤慨している。優はこくりと頷いた。

「じゃ、着替えるから、おばさんはテーブルの方で待ってて」

 樹はそう言って雅子を追い払う。
 部屋着のままだった優にきちんとした服を着せて、樹は二人のためにコーヒーを淹れる。優にはミルクと蜂蜜入り、雅子にはブラックで。


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