二人の遺体を前に、スミレは茫然とする。
いや、ローズはもしかしてまだ生き返るかも知れない。しかし、奈緒は? この子が何か‘薬’否、‘毒’を飲んだことは明白だ。彼女が抱えてきたバッグの中身が床に散らばり、カプセル剤の空の容器が彼女の脇に落ちていた。
何の薬だった?
ロミオとジュリエットが飲んだ毒薬か?
次の世界で出会えるための?
「バカヤローっ!!!」
奈緒を横たえた足元に跪き、スミレは拳で床を叩く。彼女の顔色はすでに生きた人間のそれではなかった。呼吸は完全に止まり、脈も触れない。しばらく蘇生術を施したのだが、もう、無駄だった。
何を望んだ? 引き替えにローズを呼び戻すこと? そんな願いをかなえてくれる都合の良い神様なんかいないんだぞ?
救急車を呼んでも無駄だと思った。それに、何をどう説明する? 保険証も身分証明書もない二人だ。それに、この事態を言葉を尽くして説明したとして協力が得られることも、事態が好転することも考えにくい。
結局、最終的に彼に出来るのは、二人を共に葬ってやることだけではないだろうか。
不意に浮かんだ最悪の想像に吐きそうになる。
大声で叫びだしたいのをようやく堪えて、スミレはなんとか立ち上がった。
俺が、なんとかするしかあるまい。ここで待っているだけじゃなくて、何かを…
痛みと共に見下ろした奈緒の顔色は酷く、ローズの呼吸もゆっくりと停止した。二人を失って、結局手に入れられる情報すらなかったのだ。
情報などなくても、出来ることはある。しかも、俺に出来る方法で。そう決意して部屋を出ようとしたとき、不意に扉を激しくノックされた。
‘松’に依頼した霊能者にしては早すぎる。
呼んでもいないのに、またフロントの人間が来たのか…?
スミレは、覗き窓から相手を確かめる。そして、目を瞬かせた。そこには‘梅’の店主が立っていたのだ。
「いつ、薬を?」
部屋の中の様子を一目見て、‘梅’は聞いた。奈緒がこの薬に手を出すことを、彼女は予想していたのかも知れない。しかし、彼女は奈緒自身が薬の影響を受ける事態までは考えていなかったようだ。その表情に明らかな狼狽が見えて、スミレは青ざめる。
「…20分くらい前だろう。俺が気がついたときにはチェリーはもう、ローズに薬を飲ませていた」
「分かった。急いで―」
‘梅’は散らばった床から何かを拾い上げ、スミレに指示を出す。
「水を大量に。ミネラルウォーターで良い。ありったけ買ってかき集めておいで!」
「…あ? ああ。しかし…」
「言われたことをさっさとしないかっ」
スミレは慌てて廊下へ走り出る。しかし、ヒトの脳は確か5分も酸素が行かなければ死に絶えるんじゃなかったか? もう手遅れだ。そう思うのに、彼はとにかく両手に溢れるほどの水を買い集める。
部屋に戻ると‘梅’はすでに部屋に備え付けの水のボトルを奈緒に飲ませ続けていた。喉に流し込んでいるというのか。死んだ身体が反応する訳はないのに。
何度か口移しで飲ませ、口を開けさせて喉の奥に流し込み、それを繰り返す。
次々とボトルの口を開けて水を流し込んでいる。背後で見つめるスミレは生まれて初めているのかいないのか分からない神に祈った。せめて、チェリーだけでも。この子だけでも戻してくれ。この子を一緒に送ったりしたら、俺は死んでからローズに合わせる顔がない。
そして。…まさに奇跡が起きた瞬間をスミレは見た。微かに、奈緒の喉が動いたのだ。ごくり、と自らの力で水を飲み込んだように、見えた。
「チェリー…?」
「早く、次!」
怒鳴られてスミレは慌てて最後のボトルの蓋を開ける。
「足りない、スミレ! もっと買っておいで!」
スミレは飛び上がるように立ち上がり、廊下へ走り出ていく。
「チェリー…、チェリー、チェリー…」
涙で視界がぼやける。慌てて拳で目元をぬぐい、水を抱えて走る。早く。一秒でも早く、チェリーへ水を届けるために。
そして、奈緒は息を吹き返し、大量の水を吐き出した。
黄泉還りの秘薬。それは、黄泉の世界の魔物にとり憑かれた魂を呼び戻すための薬だ。しかし、それは‘闇’に絡めとられた魂にこそ有効なものなのだ。肉体に相応の負担を与えることにはなるが、仮死状態に落とした身体が蘇ろうとする力に乗じて魂を引き戻す。しかし、魂の備わった肉体へのダメージは‘死’と等しい。生命活動を止めてしまった身体に再び命の息吹を灯すには、とにかく、その薬効を薄めて出来るだけ吐き出させるしかない。まだ脳が麻痺している間に、何が起こったのか、身体も魂も‘死’を認識してしまう前に。
毒の成分が脳を仮死(麻痺)状態に保っていたお陰で、奈緒の身体は、催眠術から解けたみたいに、ゆっくりだが、生命活動を取り戻してきた。心臓が鼓動を始め、突然、咳き込むように呼吸を再開した。当然、‘梅’は解毒薬も使っていた。そのとき出来るあらゆることを施して、‘梅’は奈緒の命だけは取り留めた。
奈緒をスミレに任せた後、‘梅’はローズの方に取り掛かった。彼の目覚めはまだ遅い。今、身体は一気に‘死’へ向かっている。その寸前で引き戻さなければならない。先ほどまであった自発呼吸が完全に止まり、脈が消えた。
後は、出来るだけ安静に保ち、彼の生命力を信じるしかない。‘梅’はローズの足の傷を手当し、匂いの強い香草を取り出して、それで身体をこすり始めた。
そのとき、奈緒がうっすらと目を開けた。しかし、その瞳にまだ正常な光は宿らなかった。虚ろな視線はただ一点を見つめ、何か見えているのか怪しかった。
「チェリー?」
思わず、スミレが声を掛ける。すると、その声に反応したように、ぴくりとローズの指先が動いた。
「ローズ?」
‘梅’は耳元に呼びかける。
「早く戻ってくるんだ。お前が来ないとチェリーも目覚めない」
反応はなかった。表情は動かず、冷たい手足は固まったままだ。
「チェリーをここに引き込んだお前の責任を忘れるな!」
すると、突然、不意に心臓の鼓動が弱々しく再開した。続いて苦しそうにもがきながら息を吸い込む仕草が見られて、一気に呼吸が戻った。同じように咳き込んでうっすら目を開けたローズは、奈緒よりも大分意識ははっきりしているようだ。
「…」
‘梅’の顔を見つめて、ローズはすぐに相手を認識したようだ。
いや、奈緒が意識が消える寸前のところで彼を引き留めておいたからだろう。奈緒の強い想いが、彼をここに引き戻したのだ。
辿るべき道筋を辿って戻ってきた彼は、そこで掴んだ記憶の断片を鮮明に捕えたままだったようだ。
「…大事な…ことが…」
ローズはすぐに口を開いた。
「と…きょ…白い…ビル…」
‘梅’が一生懸命聞き取り、スミレが‘松’に連絡を入れた。
東京の町並み、その一角にあるオフィスビルと、そこにいた白人らしき人物のことを。その人物が待つのは最上階の夜景が見下ろせる大きな窓のある場所。部屋とは言えない大きな空間だということだった。
いや、ローズはもしかしてまだ生き返るかも知れない。しかし、奈緒は? この子が何か‘薬’否、‘毒’を飲んだことは明白だ。彼女が抱えてきたバッグの中身が床に散らばり、カプセル剤の空の容器が彼女の脇に落ちていた。
何の薬だった?
ロミオとジュリエットが飲んだ毒薬か?
次の世界で出会えるための?
「バカヤローっ!!!」
奈緒を横たえた足元に跪き、スミレは拳で床を叩く。彼女の顔色はすでに生きた人間のそれではなかった。呼吸は完全に止まり、脈も触れない。しばらく蘇生術を施したのだが、もう、無駄だった。
何を望んだ? 引き替えにローズを呼び戻すこと? そんな願いをかなえてくれる都合の良い神様なんかいないんだぞ?
救急車を呼んでも無駄だと思った。それに、何をどう説明する? 保険証も身分証明書もない二人だ。それに、この事態を言葉を尽くして説明したとして協力が得られることも、事態が好転することも考えにくい。
結局、最終的に彼に出来るのは、二人を共に葬ってやることだけではないだろうか。
不意に浮かんだ最悪の想像に吐きそうになる。
大声で叫びだしたいのをようやく堪えて、スミレはなんとか立ち上がった。
俺が、なんとかするしかあるまい。ここで待っているだけじゃなくて、何かを…
痛みと共に見下ろした奈緒の顔色は酷く、ローズの呼吸もゆっくりと停止した。二人を失って、結局手に入れられる情報すらなかったのだ。
情報などなくても、出来ることはある。しかも、俺に出来る方法で。そう決意して部屋を出ようとしたとき、不意に扉を激しくノックされた。
‘松’に依頼した霊能者にしては早すぎる。
呼んでもいないのに、またフロントの人間が来たのか…?
スミレは、覗き窓から相手を確かめる。そして、目を瞬かせた。そこには‘梅’の店主が立っていたのだ。
「いつ、薬を?」
部屋の中の様子を一目見て、‘梅’は聞いた。奈緒がこの薬に手を出すことを、彼女は予想していたのかも知れない。しかし、彼女は奈緒自身が薬の影響を受ける事態までは考えていなかったようだ。その表情に明らかな狼狽が見えて、スミレは青ざめる。
「…20分くらい前だろう。俺が気がついたときにはチェリーはもう、ローズに薬を飲ませていた」
「分かった。急いで―」
‘梅’は散らばった床から何かを拾い上げ、スミレに指示を出す。
「水を大量に。ミネラルウォーターで良い。ありったけ買ってかき集めておいで!」
「…あ? ああ。しかし…」
「言われたことをさっさとしないかっ」
スミレは慌てて廊下へ走り出る。しかし、ヒトの脳は確か5分も酸素が行かなければ死に絶えるんじゃなかったか? もう手遅れだ。そう思うのに、彼はとにかく両手に溢れるほどの水を買い集める。
部屋に戻ると‘梅’はすでに部屋に備え付けの水のボトルを奈緒に飲ませ続けていた。喉に流し込んでいるというのか。死んだ身体が反応する訳はないのに。
何度か口移しで飲ませ、口を開けさせて喉の奥に流し込み、それを繰り返す。
次々とボトルの口を開けて水を流し込んでいる。背後で見つめるスミレは生まれて初めているのかいないのか分からない神に祈った。せめて、チェリーだけでも。この子だけでも戻してくれ。この子を一緒に送ったりしたら、俺は死んでからローズに合わせる顔がない。
そして。…まさに奇跡が起きた瞬間をスミレは見た。微かに、奈緒の喉が動いたのだ。ごくり、と自らの力で水を飲み込んだように、見えた。
「チェリー…?」
「早く、次!」
怒鳴られてスミレは慌てて最後のボトルの蓋を開ける。
「足りない、スミレ! もっと買っておいで!」
スミレは飛び上がるように立ち上がり、廊下へ走り出ていく。
「チェリー…、チェリー、チェリー…」
涙で視界がぼやける。慌てて拳で目元をぬぐい、水を抱えて走る。早く。一秒でも早く、チェリーへ水を届けるために。
そして、奈緒は息を吹き返し、大量の水を吐き出した。
黄泉還りの秘薬。それは、黄泉の世界の魔物にとり憑かれた魂を呼び戻すための薬だ。しかし、それは‘闇’に絡めとられた魂にこそ有効なものなのだ。肉体に相応の負担を与えることにはなるが、仮死状態に落とした身体が蘇ろうとする力に乗じて魂を引き戻す。しかし、魂の備わった肉体へのダメージは‘死’と等しい。生命活動を止めてしまった身体に再び命の息吹を灯すには、とにかく、その薬効を薄めて出来るだけ吐き出させるしかない。まだ脳が麻痺している間に、何が起こったのか、身体も魂も‘死’を認識してしまう前に。
毒の成分が脳を仮死(麻痺)状態に保っていたお陰で、奈緒の身体は、催眠術から解けたみたいに、ゆっくりだが、生命活動を取り戻してきた。心臓が鼓動を始め、突然、咳き込むように呼吸を再開した。当然、‘梅’は解毒薬も使っていた。そのとき出来るあらゆることを施して、‘梅’は奈緒の命だけは取り留めた。
奈緒をスミレに任せた後、‘梅’はローズの方に取り掛かった。彼の目覚めはまだ遅い。今、身体は一気に‘死’へ向かっている。その寸前で引き戻さなければならない。先ほどまであった自発呼吸が完全に止まり、脈が消えた。
後は、出来るだけ安静に保ち、彼の生命力を信じるしかない。‘梅’はローズの足の傷を手当し、匂いの強い香草を取り出して、それで身体をこすり始めた。
そのとき、奈緒がうっすらと目を開けた。しかし、その瞳にまだ正常な光は宿らなかった。虚ろな視線はただ一点を見つめ、何か見えているのか怪しかった。
「チェリー?」
思わず、スミレが声を掛ける。すると、その声に反応したように、ぴくりとローズの指先が動いた。
「ローズ?」
‘梅’は耳元に呼びかける。
「早く戻ってくるんだ。お前が来ないとチェリーも目覚めない」
反応はなかった。表情は動かず、冷たい手足は固まったままだ。
「チェリーをここに引き込んだお前の責任を忘れるな!」
すると、突然、不意に心臓の鼓動が弱々しく再開した。続いて苦しそうにもがきながら息を吸い込む仕草が見られて、一気に呼吸が戻った。同じように咳き込んでうっすら目を開けたローズは、奈緒よりも大分意識ははっきりしているようだ。
「…」
‘梅’の顔を見つめて、ローズはすぐに相手を認識したようだ。
いや、奈緒が意識が消える寸前のところで彼を引き留めておいたからだろう。奈緒の強い想いが、彼をここに引き戻したのだ。
辿るべき道筋を辿って戻ってきた彼は、そこで掴んだ記憶の断片を鮮明に捕えたままだったようだ。
「…大事な…ことが…」
ローズはすぐに口を開いた。
「と…きょ…白い…ビル…」
‘梅’が一生懸命聞き取り、スミレが‘松’に連絡を入れた。
東京の町並み、その一角にあるオフィスビルと、そこにいた白人らしき人物のことを。その人物が待つのは最上階の夜景が見下ろせる大きな窓のある場所。部屋とは言えない大きな空間だということだった。
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もくじ
紺碧の蒼

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真紅の闇

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黄泉の肖像

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『花籠』シリーズ・総まとめ編

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花籠

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花籠 2

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花籠 3

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花籠 4

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花籠 外伝集

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儘 (『花籠』外伝)

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ラートリ~夜の女神~

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光と闇の巣窟(R-18)

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蒼い月

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永遠の刹那

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Sunset syndrome

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陰影 1(R-18)

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陰影 2

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虚空の果ての青 第一部

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虚空の果ての青 第二部

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虚空の果ての青 第三部

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虚空の果ての青(R-18)

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アダムの息子たち(R-18)

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Horizon(R-18)

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スムリティ(R-18)

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月の軌跡(R-18)

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ローズガーデン(R-18)

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Sacrifice(R-18)

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下化衆生 (R-18)

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閑話休題

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未分類
