後日、警察から事情を聞かれた李緒は、施設長が殺されたその日は、自分はデートだったのだと答えた。施設長に呼び出されて部屋へ行ったが、約束していた時間に遅れそうになったのですぐに失礼して彼のもとへ向かったと。
彼女が施設長に呼ばれたこと、彼の部屋を訪れたことはそれまで一緒にいた子が知っていた。しかし、彼女がそこをいつ去ったのかは誰も知らない。
事件が起こって数日後、施設を出た卒業生たちを一軒一軒訪ねて、刑事は聞き込みを行っていたようだ。
あんな事件があったので、その年の卒業予定の子たちは、ともかく全て施設を出されてそれぞれアパートに暮らしていた。残っていた児童・生徒も一旦、別の施設に預けられている。安全性を指摘され、セキュリティの問題を解決するまで子ども達を戻せないのだ。
「部屋を出るとき、…誰か、こう…不審な人物を見かけませんでしたかね? そう、普段、見かけないような男とか」
李緒の部屋を訪れた二人の刑事は、玄関先で型通りの質問をする。
素人の仕業ではないことは一目瞭然なので、もちろん、彼女を疑っている訳ではない。しかも、彼女が犯行時刻にあの部屋にいた証拠なんて何もない。
「…いいえ。その…私も急いでおりましたので」
彼氏との待ち合わせに遅れそうになっていたら、それはそうだろう、と刑事は疑わなかったようだ。聞いていた一人が、分かりました、と手帳を閉じた。
「何か思い出すことがあったら、ご連絡ください」
一礼して去っていった二人の男を見送りながら、李緒は小さなため息をついた。そして、扉を閉めた途端、微かな震えが襲ってくる。嘘をついたことに対してではなく、殺人現場を見てしまったことに対してでもない。
施設長が殺された瞬間の、殺人者に対する奇妙な想いに対してである。
李緒は、彼女に覆いかぶさってその身体を食らおうとしていたケモノが、人の入ってきた気配に、驚愕して振り返り、立ち上がった瞬間に、彼の前に立った男の姿を思い出す。そのとき、光を背にして立った殺人者の、その黒尽くめのシルエットが幻想のように美しいと感じた。そして、その流れるように優雅な動きにうっとりするほど心が震えたのだ。
思い出すたびに李緒は奇妙な感覚に襲われ、彼のシルエットの裏にもうひとつの映像と声が重なる。
そして、真っ赤に染まる視界。
「なんだか、以前も似たような事件ありましたよね。ほら、レストランの経営者が夜中に刺殺された…」
一人の若い刑事はふとそんなことを呟く。
「ああ…いや、お前は知らないだろうが、実は一時、もっと頻発したことがあったんだよ、この手の事件が。…結局、犯人は上がらずじまいだったけどな」
「うへぇ、そうなんですか」
年配の刑事は険しい表情のまま一点を見据える。ここ十数年鳴りを潜めていた同じ人物が、再び動き始めたのだろうか?
「まさか…な。しかし、傷跡も手技もそっくりだ」
しかも…と彼は苦々しく思う。殺された人間を調べると、例外なく社会の屑といった悪人ばかりだった。そいつが消えて同情する関係者はほとんどいないのだ。そして、誰もが犯人逮捕に非協力的だ。犯人が捕まらなければ良いという空気すら感じられる。
それでも犯人を追わなければならない。それが仕事なのだ。
ある種のプロの殺人者の存在は疑いようはない。しかし、今のところ、まるで犯人像が浮かび上がってこない。目撃者もほとんどないのだ。いや、たとえ不審人物を見掛けていても、わざわざ聞かれない限り誰も通報してくれないという現状だ。
「やりにくいなぁ…」
若い刑事の愚痴ともつかないため息を横で聞きながら、年配の先輩刑事はふとたった今あとにしてきたアパートを見上げる。部屋のひとつひとつはそれほど広くはないが、建物自体は新しい。まず目を引くのは綺麗な白い壁の外観だ。更に白い塀で囲まれた周囲に、入り口は部屋の鍵を翳さないと通れないチェックゲートだ。訪問者は管理人を呼び出すか中の住人に連絡を取ってセキュリティを解除してもらわないと入れない。
「しかし、他の子は皆ごく普通の安い部屋住まいだったのに、何故、彼女だけこんな良い部屋に住んでるんだ?」
「さぁ…ほら、彼氏がいるって言ってたじゃないですか。お金持ちの御曹司でも捕まえたんじゃないですかねぇ」
「…」
「それがどうかしたんですか?」
「いや、どうもしないが…なんか、ちょっと気になったのさ」
これが刑事の勘というものであろう。小さな違和感。そして、理屈で説明出来ないことにこそ真実へ近づく道であることを、彼らは本能的に知っているのだ。
これこそが、アカシアが恐れていたことだ。
小さなほころびが命取りになる…。
彼女が施設長に呼ばれたこと、彼の部屋を訪れたことはそれまで一緒にいた子が知っていた。しかし、彼女がそこをいつ去ったのかは誰も知らない。
事件が起こって数日後、施設を出た卒業生たちを一軒一軒訪ねて、刑事は聞き込みを行っていたようだ。
あんな事件があったので、その年の卒業予定の子たちは、ともかく全て施設を出されてそれぞれアパートに暮らしていた。残っていた児童・生徒も一旦、別の施設に預けられている。安全性を指摘され、セキュリティの問題を解決するまで子ども達を戻せないのだ。
「部屋を出るとき、…誰か、こう…不審な人物を見かけませんでしたかね? そう、普段、見かけないような男とか」
李緒の部屋を訪れた二人の刑事は、玄関先で型通りの質問をする。
素人の仕業ではないことは一目瞭然なので、もちろん、彼女を疑っている訳ではない。しかも、彼女が犯行時刻にあの部屋にいた証拠なんて何もない。
「…いいえ。その…私も急いでおりましたので」
彼氏との待ち合わせに遅れそうになっていたら、それはそうだろう、と刑事は疑わなかったようだ。聞いていた一人が、分かりました、と手帳を閉じた。
「何か思い出すことがあったら、ご連絡ください」
一礼して去っていった二人の男を見送りながら、李緒は小さなため息をついた。そして、扉を閉めた途端、微かな震えが襲ってくる。嘘をついたことに対してではなく、殺人現場を見てしまったことに対してでもない。
施設長が殺された瞬間の、殺人者に対する奇妙な想いに対してである。
李緒は、彼女に覆いかぶさってその身体を食らおうとしていたケモノが、人の入ってきた気配に、驚愕して振り返り、立ち上がった瞬間に、彼の前に立った男の姿を思い出す。そのとき、光を背にして立った殺人者の、その黒尽くめのシルエットが幻想のように美しいと感じた。そして、その流れるように優雅な動きにうっとりするほど心が震えたのだ。
思い出すたびに李緒は奇妙な感覚に襲われ、彼のシルエットの裏にもうひとつの映像と声が重なる。
そして、真っ赤に染まる視界。
「なんだか、以前も似たような事件ありましたよね。ほら、レストランの経営者が夜中に刺殺された…」
一人の若い刑事はふとそんなことを呟く。
「ああ…いや、お前は知らないだろうが、実は一時、もっと頻発したことがあったんだよ、この手の事件が。…結局、犯人は上がらずじまいだったけどな」
「うへぇ、そうなんですか」
年配の刑事は険しい表情のまま一点を見据える。ここ十数年鳴りを潜めていた同じ人物が、再び動き始めたのだろうか?
「まさか…な。しかし、傷跡も手技もそっくりだ」
しかも…と彼は苦々しく思う。殺された人間を調べると、例外なく社会の屑といった悪人ばかりだった。そいつが消えて同情する関係者はほとんどいないのだ。そして、誰もが犯人逮捕に非協力的だ。犯人が捕まらなければ良いという空気すら感じられる。
それでも犯人を追わなければならない。それが仕事なのだ。
ある種のプロの殺人者の存在は疑いようはない。しかし、今のところ、まるで犯人像が浮かび上がってこない。目撃者もほとんどないのだ。いや、たとえ不審人物を見掛けていても、わざわざ聞かれない限り誰も通報してくれないという現状だ。
「やりにくいなぁ…」
若い刑事の愚痴ともつかないため息を横で聞きながら、年配の先輩刑事はふとたった今あとにしてきたアパートを見上げる。部屋のひとつひとつはそれほど広くはないが、建物自体は新しい。まず目を引くのは綺麗な白い壁の外観だ。更に白い塀で囲まれた周囲に、入り口は部屋の鍵を翳さないと通れないチェックゲートだ。訪問者は管理人を呼び出すか中の住人に連絡を取ってセキュリティを解除してもらわないと入れない。
「しかし、他の子は皆ごく普通の安い部屋住まいだったのに、何故、彼女だけこんな良い部屋に住んでるんだ?」
「さぁ…ほら、彼氏がいるって言ってたじゃないですか。お金持ちの御曹司でも捕まえたんじゃないですかねぇ」
「…」
「それがどうかしたんですか?」
「いや、どうもしないが…なんか、ちょっと気になったのさ」
これが刑事の勘というものであろう。小さな違和感。そして、理屈で説明出来ないことにこそ真実へ近づく道であることを、彼らは本能的に知っているのだ。
これこそが、アカシアが恐れていたことだ。
小さなほころびが命取りになる…。
- 関連記事
-
- 『花籠』 3-2
- 『花籠』 3-1
- 『花籠』 (スムリティ) 16
スポンサーサイト
もくじ
紺碧の蒼

もくじ
真紅の闇

もくじ
黄泉の肖像

もくじ
『花籠』シリーズ・総まとめ編

もくじ
花籠

もくじ
花籠 2

もくじ
花籠 3

もくじ
花籠 4

もくじ
花籠 外伝集

もくじ
儘 (『花籠』外伝)

もくじ
ラートリ~夜の女神~

もくじ
光と闇の巣窟(R-18)

もくじ
蒼い月

もくじ
永遠の刹那

もくじ
Sunset syndrome

もくじ
陰影 1(R-18)

もくじ
陰影 2

もくじ
虚空の果ての青 第一部

もくじ
虚空の果ての青 第二部

もくじ
虚空の果ての青 第三部

もくじ
虚空の果ての青(R-18)

もくじ
アダムの息子たち(R-18)

もくじ
Horizon(R-18)

もくじ
スムリティ(R-18)

もくじ
月の軌跡(R-18)

もくじ
ローズガーデン(R-18)

もくじ
Sacrifice(R-18)

もくじ
下化衆生 (R-18)

もくじ
閑話休題

もくじ
未分類
