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Stories of fate


下化衆生 (R-18)

下化衆生 (調教という凶行) 27

 医務室で休ませてもらった美久だったが、遼一との約束の時間を思い出し、なんとか帰り支度を始める。その後、久志が何を言って、どんな処分がくだされたのか、もう美久は知りたいと思わなかった。

 ただ、彼のあの狂った瞳の色だけが奇妙に心に残った。ぞっとしてながらも、何かを思い出しそうになった。何だろう? ひどく切なく悲しく…そして、これ以上ない憤り。

 しかし、時計を見た瞬間、美久は凍りつく。
 約束の時間が過ぎている!

 慌てて、携帯電話を確かめると、すでに何度か遼一から着信があった。マナーモードにしてあったので、気づかなかった。

 マズイ! ものすごくマズイ!
 美久は更に青くなってあたふたと医務室を後にした。

 会社のエントランスの受付ロビーまで出てきたとき、不意に、視界が歪んだ。倒れる! と思った瞬間、誰かの腕に抱きとめられた。背の高いらしい太くてがっしりとした腕。一瞬、真っ暗になった視界がようやく光を取り戻したとき、覗き込んでいた相手の顔が目に入った。

 直属ではないが、美久の上役に当たる上司だった。

「あ…、すみません、笹井部長…」

 彼の腕にすがったまま、美久はひどい眩暈に必死に意識を保とうとする。

「今井さん? 大分疲れているんじゃないの?」

 男性にしてはテノールのよく通る良い声だ。もう50代なのに、若々しくて紳士の彼は、女子社員に人気がある。美久も以前は秘かに憧れた相手だった。数年前に奥さんを亡くして、現在息子さんと二人暮らしだという。しかし、美久は彼に対してはそれほど熱い想いを抱かなかった。彼の態度が、万人に対して公平だったせいだろうか。

「すみません、大丈夫です、ありがとうございました」

 なんとか、彼の腕を離れて立ち、美久はまだふら付きながらもお礼を言った。こんなところを遼一に見られたら、それこそ、大変だ…と、思ってふと受付の向こうに視線をやって、彼女は今度こそ、凍りついた。

 そこには、遼一が立っていた。その瞳には、なんとも形容し難い奇妙な色が浮かび、その奥ではゆらりと青い炎が燃え上がっている。

 彼は受け付けの女性にお礼を述べて、そのまま美久を見つめ、にこりと微笑んだ。

「遅かったからどうしたのかと思って。携帯も繋がらなかったし」

 遼一の声に振り返った美久の上司は、「お友達?」と微笑み、相手に軽く会釈をして去っていった。遼一も丁寧にお辞儀を返し、微笑んだ。ぞくり、と美久は背筋が粟立った。

「ご…ごめんなさい、その…ちょっと気分が悪くなって、医務室で休んできたの…」
「そう」

 遼一は美久の腰をぐい、と抱いて引き寄せた。そして、耳元に低い声でささやく。

「仲良さそうだったね」
「ち…ちがっ…」

 慌てて彼を見上げると遼一は涼しい目をして美久を見下ろす。冷たくはない、どこか冷めたような視線だ。

「あの、あれは…私が貧血で倒れそうになったところを支えてもらっただけで…」
「貧血?」
「その、帰りがけにちょっと疲れて…」

 エントランスを出ると、遼一は通り掛ったタクシーを捕まえる。

「誰に襲われたのさ?」

 乗ろうとした瞬間、背後から低く声を掛けられた。ぎくりとして美久は彼を振り返る。そしてその怒りの炎の冷たさに震え上がった。

「…な、なに…」
「その首の跡」

 はっとして美久は両手で喉を隠した。隣に乗り込んだ遼一は運転手に行き先を告げた後、すうっと目を細めて美久を見つめる。

「なかなか毎日忙しそうだね」

 思わず顔が強張る。仕事のことではないことくらい分かっていたが、敢えて美久は誤魔化しの一手に出た。

「…あ、あの…そろそろ…落ち着く予定…かな」
「じゃあ、そろそろ仕事は区切りを付けられるんだね?」
「え、あ…あのっ、それは…っ」
「それは?」

 誤魔化しを逆手に取られ、美久は更に追い詰められる。

 遼一はただ静かに問い返しているだけだが、その威圧的な空気は美久の言葉を意味のないものとしてさらっていく。震える両手をそっと握り締めて、美久は息を吸い込んだ。これではダメだ、と美久は震える声で、それでも笑顔を必死に作ってみせる。虚勢でも、ないよりマシだ。

「あ、あの…やっと仕事らしいことが出来るようになってきて、面白くなってきたところなの」
「それで?」
「…それで、その…仕事、続けたいんだけど…」
「いつまで?」
「う、…ええと…」

 しどろもどろに困っている美久を遼一は、ふふん、という目で見下ろした。

「じゃ、それは認めるよ。まぁ、期限はあるけどね。その代わり、俺が聞いたことにもちゃんと答えて?」

 ごくり、と美久は唾を飲み込む。

「な…なに、を?」

 遼一はその場ではそれ以上の何も言わなかった。重い沈黙が流れた後、二人は予約してあったレストランの前でタクシーを下りる。

 建物の造りも玄関の広さも日本古来の独特な家屋で、日本料理店なんだと美久は思った。こんな近くに本格的な日本料理なんてあったのか、と。

「ここは、近くを通ったときにたまたま見つけてね、一度来てみたかったんだ」

 遼一は門を見上げて少し嬉しそうに言った。その穏やかな横顔を見ていると、美久もなんだか心がふわりと浮き立つ気がする。誰かが嬉しいと言っている顔を見るのが好きだと、そのとき美久は思った。

 扉を開けると、予約を確認され、奥の席へ通された。
 何もかも黒塗りの木で造られた雰囲気の良い店だった。木製のテーブルに木製の椅子。その上には心地良い座布団が敷かれ、ふと見上げると和紙が貼られた蛍光灯が吊られており、座席を区切る壁には障子が張られている。朱塗りの箸に、ひとつひとつが手作りであろうと思われる個性豊かな器たち。

「素敵…」

 思わず、美久の口から感嘆の声が漏れ、遼一はそれを見つめて、とびきりの甘い笑顔を浮かべた。その瞳の優しさに、美久の心臓はどきりとはねる。

 今までも、遼一はたまにこんな瞳で美久を見つめることがあった。そして、そういえば、その笑顔を向ける相手が自分だけだと気付かされることがあった。そうだ、思い出した。

「遼一って、どんだけ笑ってるように見えても、絶対目は笑わないよね」

 いつだったか、誰かにそんなことを言われたことがあった。大学時代のことだ。

「へ? そんなことないよ? たま~に、こっちが勘違いしてドキドキしそうなすっごく優しい笑い方するよ」
「ええ~? 見たことな~い」

 相手はそう言って顔をしかめた。あれ? とそのとき、ちょっと引っ掛かった。だって、相手はたまに遼一とホテルへ行ったり、デートしたりしている子だったのだから。付き合ってるんでしょ? と聞いても、彼女は「そんな感じじゃないよ? 遊んだら、はいおしまい、またね、って感じだし。遼一って、ヒトに執着しないんじゃない? さすがにまったく妬いてくれないとこっちも冷めちゃうよ」と言ってケラケラ笑っていた。

 すぐにその子は他に彼氏が出来て、美久とも話すことがなくなった。

 それから、そうだ、ゆりにも似たようなことを言われた。遼一って、相手を束縛しない代わり、自分も縛られたくないんだね、と。そして、どうして、いつも冷めた目をしてるんだろう? 本気で笑った顔って見たことない、と。

 あれ? でも私は遼一のこの表情、知ってるよ? 実際、この目で見つめられたら、絶対勘違いしそうな蕩ける視線。たまに目が合ったときに、そういう目を遼一はしていたし…。私がいつもアホなことばっかりやってるから、しょうがないなぁ、という目で見ているような感じで。

「あ、あの…遼一」
「うん?」

 運ばれてきた料理に箸をつけながら、遼一は顔をあげた。

「…ええと、こういう料理って、作れるの?」

 何を聞いて良いのか分からなくて、思わず美久はそんなことを言ってしまう。何もかも上品な味付けの見た目も美しい数々の料理。こんなの出来る訳ないじゃん、と聞いておきながら美久は思う。

「ご希望とあれば、挑戦してみるのも吝かではないけど?」
「え、えっ? 本当?」
「そっくりこのままは無理だけどね」

 美久はあんぐり口を開けたまま固まった。う、料理のレベルが違う。私が作れるのなんて、カレーとか肉じゃがとか、筑前煮とか…刻んで煮込んで終わりってやつだけなのに。

「それより、本当は何を聞きたかったのさ?」
「え、本当はなんて…う、ゴホッ」

 思わず、噛み砕く前にご飯が喉に入り込んでしまって、美久はむせる。

「仕事の期限?」

 グラスの水を差し出しながら、遼一はにやりとする。

「え…、ええと、ううん」

 ここで、きっぱりそれを言い渡されることは避けたい。出来れば忘れて欲しい話題だった。すう、と遼一の見透かすような視線に慌てて、美久は目の前の食事に集中しようと俯く。

「これ、美味しいね」

 絵に描いたような誤魔化し方に遼一は小さく息をついてくすりと笑った。その気配にふと顔をあげて、美久を見つめる瞳に、あ…、と思った。今の目、優しい…。

「君は見てると面白いね」
「へっ?」
「考えていることが手に取るようで安心するよ」

 …それ、絶対、褒めてないでしょう。
 っていうか、どんだけ失礼なの?
 美久の考えを読んだように、遼一はくくくっと喉の奥で笑った。

「今、君が考えた台詞、そっくりそのまま当ててみせようか?」
「けっこうです!」

 思わず、赤くなって美久はプイと横を向く。確かに彼は昔からものすごく勘が良くて、美久が思っていることをよく当てられていた。それは亨なんかよりずっと鋭くて、具合が悪いのに無理しているときも、強がっているときも見事に察して、さり気なく気を使ってくれていた。

 そうだ。遼一はそういう男だった。

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