「おはよう。今井さん」
翌朝、会社の前で声を掛けられ、振り返ると、ほんの一時期美久が想いを寄せた、今回の仕事仲間の影沼久志がにこにこと歩み寄ってきた。
「あ、おはようございます」
美久は微笑んで挨拶を返す。
そういえば、もうすっかり存在を忘れていた。…っていうか、この間のあれはこいつが元凶だったんだ、と勝手なことを思いながら、美久はもう彼のことは頭から消え去る。遼一とどうやって対決出来るのか、ずっと頭を悩ましていたのだ。
「…なんだか、この頃、体調悪そうじゃない?大丈夫?」
心配そうに彼は言い、美久は、あ、まだいたんだ、と慌てて微笑んでみせる。
しかも、その理由を知ったら引くだろうなあ、と思いながら。
「そういえば、この間の資料のことだけど…」
久志がすぐに仕事の話題に切り替えてくれたので、美久も、すっと思考が切り替わった。その後は二人でいろいろと話し合いながらそれぞれの部署へと向かった。
美久は、もう彼のことは仕事のパートナーとしか見えなくなっていたし、当時の想い自体がすでに‘幻想’に過ぎないことを自分で分かってもいた。
それまでと同じ。自分に対して好意を抱いてくれる人だから見つめていたに過ぎなかったのだろう。もしかして、美久は自分から本当に誰かを好きになったことがないかも知れない。いつも始まりは相手の視線に気付くから、だった。
亨と別れて、遼一に甘えて慰めてもらって…の後に、こんな事態に陥ることになろうとは予想だにしていなかったし、もうこの急激な展開についていけなくなりかけていた。これ以上悩みのタネを増やしたくなくて、美久はここ半月くらいは、もう久志との会話もすっかり事務的なものになっていたのだ。
美久はもともと、たくさんのことを一度に出来る子ではなかった。もう彼の存在は、仕事の一環としてしか捉えられなくなっていたのだ。
しかし、久志の方は違った。
ある頃から突然、美久の自分を見る目が変わったことを感じずにはいられない。それまで、自分に対して微笑む彼女はぱあっと花が咲いたような輝きがあった。紹介された初めから、彼は美久に好意を抱いていた。純真そうでお嬢さまっぽいのに、仕事ではまったく‘女’を感じさせない。仕事に対して、腰かけ程度ではない、相応の覚悟のような熱意が見えてたのもしかった。それでいて、プライベートではやはり奥ゆかしく服装も清楚で、男の征服欲を刺激するタイプなのだ。
いつか、自分のものにしたいと思わせる女性だった。そして、美久が自分に対して好意を抱いている様子が分かっていて、彼はまんざらでもなかったのだ。
それが。今月の中ごろから、彼女は変わってしまった。仕事に対する態度は変わらないのに、もう、自分に対する興味を失ったらしいことが手に取るように分かる。それに著しい不満と焦りを抱いていた。
「今井さん、今夜、一緒にどう?」
その日の帰り、久志は、そそくさと定時で帰り支度を始めた美久に、飲みに行かないか?と声を掛ける。
「…ごめんなさい。悪いけど、疲れてて…。早く帰って休みたいの」
疲れてなくても、もう誘いは絶対に受けられないことは、どうしてか言い出せず、美久は曖昧に濁す。
「そうか…。残念。なんか、この頃、変じゃない?ちょっと気になってさ」
「そんなことはないけど」
美久はさっさと支度を整え、じゃ、お先に…と歩き出す。
「待って、今井さん。」
あまりに素っ気ない美久の態度に、慌てて久は彼女を追いかけ、美久の腕をつかむ。その拍子に美久のブラウスの袖が引っ張られ、胸元が少しはだけて見えた。
「今井さん、それ」
「え?」
久志はショックを受けて美久を茫然と見つめる。
「キス・マーク?」
はっとして美久は真っ赤になって胸を押さえる。
くうう! 遼一め!
赤くなってうつむいた美久を、久志はしばし茫然と見つめ、次第に裏切られたような歪んだ怒りが湧き起こってきた。
「今井さん、彼氏とは別れたって言ってなかった?」
確かに、亨と別れた直後にそんな話をしたかもしれない。
だけど、そのあとすぐにこういうことになったのよ!
と、美久はなんだか理不尽な思いに苛まれていた。
「君って、そういう女だったの?」
は? と美久はやっと顔を上げて久志を見た。なんだろう? そのあからさまな侮蔑的な視線に理不尽な怒りが湧き起こった。
「私が誰と付き合おうと関係ないと思いますけど」
かなりムッとした声色で美久は思わず言ってしまった。
別れた彼、亨と遼一との関係。彼らを含めた大学時代からの友人達との交友。そして、美久と遼一の関係。それは一言で説明できるものでもなかったし、別に分かって欲しいものでもなかった。
「誰でも良いの?」
良いわけない! そういう問題じゃないの!
美久はイライラして、放っておいてよ、という表情で久を見上げる。
何も答えない美久を軽蔑したように見下ろし、久志は、じゃ、と言って戻っていった。
ちょっとの間、唖然と久志の後ろ姿を見ていた美久は、すぐに「まあ、どうでも良いや」と呟き、慌てて帰宅の途に就いた。
まさか、久志が、‘そんなこと’を考えていたとは知らずに。
翌朝、会社の前で声を掛けられ、振り返ると、ほんの一時期美久が想いを寄せた、今回の仕事仲間の影沼久志がにこにこと歩み寄ってきた。
「あ、おはようございます」
美久は微笑んで挨拶を返す。
そういえば、もうすっかり存在を忘れていた。…っていうか、この間のあれはこいつが元凶だったんだ、と勝手なことを思いながら、美久はもう彼のことは頭から消え去る。遼一とどうやって対決出来るのか、ずっと頭を悩ましていたのだ。
「…なんだか、この頃、体調悪そうじゃない?大丈夫?」
心配そうに彼は言い、美久は、あ、まだいたんだ、と慌てて微笑んでみせる。
しかも、その理由を知ったら引くだろうなあ、と思いながら。
「そういえば、この間の資料のことだけど…」
久志がすぐに仕事の話題に切り替えてくれたので、美久も、すっと思考が切り替わった。その後は二人でいろいろと話し合いながらそれぞれの部署へと向かった。
美久は、もう彼のことは仕事のパートナーとしか見えなくなっていたし、当時の想い自体がすでに‘幻想’に過ぎないことを自分で分かってもいた。
それまでと同じ。自分に対して好意を抱いてくれる人だから見つめていたに過ぎなかったのだろう。もしかして、美久は自分から本当に誰かを好きになったことがないかも知れない。いつも始まりは相手の視線に気付くから、だった。
亨と別れて、遼一に甘えて慰めてもらって…の後に、こんな事態に陥ることになろうとは予想だにしていなかったし、もうこの急激な展開についていけなくなりかけていた。これ以上悩みのタネを増やしたくなくて、美久はここ半月くらいは、もう久志との会話もすっかり事務的なものになっていたのだ。
美久はもともと、たくさんのことを一度に出来る子ではなかった。もう彼の存在は、仕事の一環としてしか捉えられなくなっていたのだ。
しかし、久志の方は違った。
ある頃から突然、美久の自分を見る目が変わったことを感じずにはいられない。それまで、自分に対して微笑む彼女はぱあっと花が咲いたような輝きがあった。紹介された初めから、彼は美久に好意を抱いていた。純真そうでお嬢さまっぽいのに、仕事ではまったく‘女’を感じさせない。仕事に対して、腰かけ程度ではない、相応の覚悟のような熱意が見えてたのもしかった。それでいて、プライベートではやはり奥ゆかしく服装も清楚で、男の征服欲を刺激するタイプなのだ。
いつか、自分のものにしたいと思わせる女性だった。そして、美久が自分に対して好意を抱いている様子が分かっていて、彼はまんざらでもなかったのだ。
それが。今月の中ごろから、彼女は変わってしまった。仕事に対する態度は変わらないのに、もう、自分に対する興味を失ったらしいことが手に取るように分かる。それに著しい不満と焦りを抱いていた。
「今井さん、今夜、一緒にどう?」
その日の帰り、久志は、そそくさと定時で帰り支度を始めた美久に、飲みに行かないか?と声を掛ける。
「…ごめんなさい。悪いけど、疲れてて…。早く帰って休みたいの」
疲れてなくても、もう誘いは絶対に受けられないことは、どうしてか言い出せず、美久は曖昧に濁す。
「そうか…。残念。なんか、この頃、変じゃない?ちょっと気になってさ」
「そんなことはないけど」
美久はさっさと支度を整え、じゃ、お先に…と歩き出す。
「待って、今井さん。」
あまりに素っ気ない美久の態度に、慌てて久は彼女を追いかけ、美久の腕をつかむ。その拍子に美久のブラウスの袖が引っ張られ、胸元が少しはだけて見えた。
「今井さん、それ」
「え?」
久志はショックを受けて美久を茫然と見つめる。
「キス・マーク?」
はっとして美久は真っ赤になって胸を押さえる。
くうう! 遼一め!
赤くなってうつむいた美久を、久志はしばし茫然と見つめ、次第に裏切られたような歪んだ怒りが湧き起こってきた。
「今井さん、彼氏とは別れたって言ってなかった?」
確かに、亨と別れた直後にそんな話をしたかもしれない。
だけど、そのあとすぐにこういうことになったのよ!
と、美久はなんだか理不尽な思いに苛まれていた。
「君って、そういう女だったの?」
は? と美久はやっと顔を上げて久志を見た。なんだろう? そのあからさまな侮蔑的な視線に理不尽な怒りが湧き起こった。
「私が誰と付き合おうと関係ないと思いますけど」
かなりムッとした声色で美久は思わず言ってしまった。
別れた彼、亨と遼一との関係。彼らを含めた大学時代からの友人達との交友。そして、美久と遼一の関係。それは一言で説明できるものでもなかったし、別に分かって欲しいものでもなかった。
「誰でも良いの?」
良いわけない! そういう問題じゃないの!
美久はイライラして、放っておいてよ、という表情で久を見上げる。
何も答えない美久を軽蔑したように見下ろし、久志は、じゃ、と言って戻っていった。
ちょっとの間、唖然と久志の後ろ姿を見ていた美久は、すぐに「まあ、どうでも良いや」と呟き、慌てて帰宅の途に就いた。
まさか、久志が、‘そんなこと’を考えていたとは知らずに。
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