下化衆生 (R-18)

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下化衆生 (甘美なる闇の中へ) 1 

下化衆生 (R-18)

 かなり‘闇’が深いです。
 え? 今まではどうなんだ、とおっしゃられたら…はははは、ってなもんですが。
 いや、これは正直お勧めしません。

 かなり放ったらかしにしておいたものを磯崎愛さん(唐草銀河)の『遍愛日記』のミズキさんに心酔して、ちょっと彼の言葉とか言い回しとかを勝手に取り入れて、彼のあの「うおおおおおっ」と悶えるほどの、まさに清々しくも美しい狂気を少しでも取り込みたくなって加筆修正した過去作です。
 『アダム~』の次くらいに描いたものなので、相当古いです、かなり‘闇’が濃い時期の世界です~

 しかしっ、あの、ミズキさんの透明感のある高潔な魂に近づくのは無理でした。
 こいつらは単なるガキの喧嘩です(--;

 閲覧は自己責任にて。

 いや、ですから、お勧めはしませんので(--;








 軽い頭痛を感じて目覚め、目を開けたはずなのに、何も見えなかった。

「?」
 ここは、どこだろう?
 身体を動かそうとして、腕も足もほとんど動かないことに気付き、今井美久は少し恐怖を抱いた。
 え、え? あれっ? どうして…っ?

 そして、不意に感じた違和感にぞっとする。

 なんだろう? 空気の重さ? 匂いが違う。それに、肌に触れる布…。これは私のベッドのシーツとは明らかに違う。

 ここは…私の部屋ではない! じゃあ、いったいここは、どこ?
 しかも、この微かな頭痛…? あれ? いったい私、どうしたんだっけ?

 動こうともがいていると、すぐ近くで人の気配がし、美久はぎょっとした。

「ああ、気がついた?」

 聞いたことのある声だった。

「…遼一?」

 そう思って声に出したわけではなく、反射的に美久はそう口にしていた。そして、その名の主が本当にそこにいるのだとしたら…

「遼一なの? ああ、良かった。どうなってるの…? ここはどこ?」

 ほっとして美久は身じろぎをする。それでも、手足を縛られているようで動きは封じられていた。

「ねぇ、どうなってるの? ここは…ここは、どこ?」
「俺の部屋だよ。覚えてないの?」

 くすりと笑いながら、瀬田遼一は答える。その手が美久の頬に優しく触れる。
 その手の温かさに美久は安堵する。

「…どうし―」

 どうして、私があんたの部屋に? と聞こうとして口を開いた途端、不意に美久は口をふさがれる。

「ん…っ」

 不意打ちのキスに美久は一瞬、相手が誰なのか分からなくなって混乱する。そういう展開を一切想像していなかった。彼は、こんな風に女性を縛ったり、まるでレイプのような行為をする男ではない。

「んうっ…」

 誰? 本当に遼一なの?

 訳が分からなくて、とにかく抵抗を試みようと手足を動かそうとしてみても、両腕は頭の上に固定され、足もまったく動かない。しかも、遼一の手が美久の乳首に触れ、もう一方の手が腹部を撫でながら次第に下へ滑り降りていく感覚に、自分が裸であると知った。

「ん…んんっ…!」

 頭の中は混乱を極め、事態の把握がまったく出来なかった。
 ち…ちょっと待って? 本当に、どういうこと? どうして、遼一が?

 散々、口の中を蹂躙され、抗議の声をあげる隙もなく、やっと、唇を解放された途端、美久は叫ぶ。

「や…やめて…! 遼一? …なんで? …いや!」


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ジャンル:[小説・文学] テーマ:[恋愛:エロス:官能小説
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下化衆生 (甘美なる闇の中へ) 2 

下化衆生 (R-18)

 美久の中の‘遼一’は、そういう存在ではなかった。人物評としても、抱くイメージとしても、そして、対人関係の対象としても。

 彼は、常に皆を公平に平等に大切にする人だったし、美久も、友人として彼を好きだった。そして、頼れる相手として尊敬もしていた、と思う。あまり、彼を意識したことがなかったので、分からないが、少なくとも、美久を今こんな風に陵辱するような男ではない。筈だった。

 美久の叫びに、相手はどこか躊躇したのだろうか。ふっと動きを止めて気配すら消してしまった。

 縛られた両手首が、もがいたせいでうっ血しているような気がする。縛られた部分も痛みがあり、足首に至っては金属の感触だ。もがく度に鎖の擦れ合うような音が響く。ぞくりと背筋が粟立った。

「…り…りょ…いち?」

 恐る恐る美久は声を掛けてみる。ここにいるのが、本当に彼女が思っている人物なのか分からない。その恐怖と心細さで美久は泣きそうだった。
 しばらく待ってみたが、相手は答える気がなさそうだ。

「りょ…」
「そうだよ。」

 突然、耳元に息がかかる。ぎょっとして美久は身体を強張らせた。

「どうしてここにいるのか、覚えてないの?」

 むしろ、憐れむような声だった。

「…え…と…」

 微かな頭痛を思い出し、美久は一番ありそうなことを答える。

「飲んでた…の?」
「らしいね。」
「…あ、そう…。その、ええと…いつもの店で?」

 言い掛けて、いつものメンバーの顔を思い浮かべようとして、不意に割り込んできた顔に、美久ははっとした。

「あ…っ」

 思い出した。何故、こんな事態に至ったのかを。

 遼一は美久の目をふさいでいたアイマスクをそっと外した。突如、光に触れた美久の瞳は、一瞬眩しさにくらんだ。ゆっくりと目を開けると目の前にまぎれもなく遼一の顔があった。

 不思議に妖しさをたたえ、ぞっとするほど冷えた瞳で美久を見下ろしている。

「言ったでしょう? 俺を怒らせるからだよ。」

 にこっと遼一は言い、美久は、その声と裏腹な遼一の冷たい瞳に、全身がぞうっと凍りつくのを感じた。



下化衆生 (甘美なる闇の中へ) 3 

下化衆生 (R-18)

 あれは、一月前のまだ夏の気配が色濃く残っている9月。

 美久は、その月の初め、男に振られた。それは、大学時代から付き合っていた彼で、昨年お互いが就職してから、なかなか時間が合わずにすれ違いが多くなってきた矢先の出来事だった。しかも、男は、長い間、美久の親友と二股をかけていたことが発覚し、その親友に完全に奪われた、という形だった。

 美久は、恋人と親友を同時に失ったのだ。
 その、元カレの一番の親友が遼一だった。

 美久とその男と遼一と、そこに数人加えた仲間達は何かとよく一緒に遊び、その中にカップルが出来ても、就職してからも、皆で飲みに集まっていた。

 遼一は、一番モテていたのに、初めからまったく誰とも付き合う素振りはなく、仲間の恋愛相談にのっていたり、遊びでなら誰とでも気軽にセックスしているような変わった男だった。

 冷たいとも受け取れるクールさがあり、誰にでも優しかったが、誰にも心を許さないような淡白さがあり、逆に男女問わず、誰からも好かれて頼りにされて、中心にいるような人物なのだ。

 端正な顔立ちをしており、どこか冷徹な目をしていた。いつでも冷静で、請われるとどんな相談にものり、的確なアドバイスをする。そんなまるで同年代の男の子とは思えない、美久にとっては‘男’という対象外の人間だった。

 その、男に振られた夜。当の本人と美久の親友はその夜いなくて、それ以外のメンバーで飲んだあと、美久は最後まで一緒に残って彼女に付き合ってくれた遼一に、つい酔ったはずみで甘えてしまった。

「遼一…、今日は一人で部屋に帰りたくない。」
「良いよ、何時まででも付き合うよ。」

 いつもの如く、彼は優しかった。誰にでも向ける柔らかい笑みで美久の目を見つめ、微笑んだ。

 美久の失恋相手も、またその男の彼女も知っている遼一は、なかなかコメントはしづらい状況だったのだろう。それで、彼は美久の憂さ晴らしに付き合ってくれようとしたのかも知れない。

「ありがとう、遼一。もう、私レンアイなんてしないわ。いつも捨てられてばっかりだもん。」
「ウソつけ。君の方が捨ててるんだろ?」
「違うよ。だいたい男の方が勝手に離れていくんだって。もう、さっぱり訳が分かんない。」

 遼一は目を細めて美久を見ていた。それはまったく男を感じさせない労わるような光で、美久はため息をつきながら言ってみた。

「遼一って、皆が欲しがってるのに、どうして特定の彼女を作らないの? アイドルの運命(さだめ)?」
「君がなかなか振り向いてくれないからじゃないか。」
「だって、遼一は私なんて眼中にないじゃない。」
「違うよ。君が他の男との恋愛に忙し過ぎるんだろ?」

 美久はもういい加減酔っ払っていた。無理もないとはいえ、やはりその夜はハイペースで飲み過ぎていたのだろう。恋人と親友。一度に失うには大き過ぎる存在だった。美久はそれほど意識はしていなかったが、相当傷ついていたのだろう。

「私って…そんなにバカなのかなぁ?」
「女はバカで良いんだよ。」
「あ~っ、何、その差別的発言!」
「君は充分賢いって。」
「…もう、良いよ~だ。遼一にまでバカにされるし。」
「してないだろ?」
「じゃあ、責任取ってよ。」
「何の責任?」
「…分かんないけど。」
「抱いてやろうか?」

 美久は一瞬、言われた言葉を理解出来なかった。あまりに意外な人物から意外な言葉を吐かれ、酔っ払った脳には正確に届かなかったのだ。

「…慰めてくれるの~?」
「違うよ。」
「どうして?」
「本気で抱いてやろうか? って言ってるんだよ。」

 遼一の目は相変わらず細められていたのに、その奥に別の光が宿っていることに、美久は気付かなかった。

「本気でって? 付き合おうって言ってるの?」
「そうだよ。」
「良いよ、遼一なら。」

 すると、遼一はふっと困ったような笑みを浮かべて氷水を飲み干した。

「冗談だよ、美久ちゃん。そろそろ送ってあげるよ。」

 その突き放したような声色に、美久は泣きそうになる。

「結局、そうだよね。私のこと、誰も本気で考えてくれる人なんていないんだもん。」
「君のことを考えているから、今日は送ってくよ。」
「やだやだやだ、遼一のバカっ!」

 テーブルに突っ伏して駄々をこねる美久に、遼一は笑った。

「君のためを思って言ってるんだって。ほら、もう立って。タクシー手配して送ってあげるから。」

 ふわりと抱き起こされて、美久は半分眠りに落ちそうな状態で彼の胸にもたれかかった。これほど無防備だったのは、相手が大学時代からの仲間で、信頼している友人で、付き合っていた男のことも美久の親友のことも彼がよく知っているから、というだけではなく、美久にはどこか遼一を‘男’と捉えていない気の緩みがあったからだろう。

「遼一、私ってそんなに魅力ないの~? どうして私のことは‘女’として扱ってくれないの? ゆりとは寝たんでしょう?」
「酔っ払ってるよ、美久ちゃん。」

 少し呆れたように遼一はその身体を支えて立たせる。

「やだやだ、帰らないもん。」
「美久ちゃん、君、明日も仕事でしょ?」
「仕事なんてもう良い~っ、遼一のバカっ」

 遼一は、はいはい、と軽くあしらいながら会計を済ませ、ふらつく美久の肩を抱いたままタクシーを探す。

「遼一は、私のこと嫌いなの?」
「まさか。俺は君のことしか見てないよ。」
「そんなのウソだね。」

 くすり、と遼一は美久を見下ろした。

「ほんとだよ? だから、良い? 美久ちゃん、一度俺がその気になったら君はもう逃げられないよ?」
「良いよ、遼一なら。」

 酔って潤んだ目で美久は背の高い遼一を見上げる。なんだか、無性に寂しくて、やるせなくて、何もかもがどうでも良かった。そして、遼一の言葉なんて、彼女は半分も聞いていなかったのだ。

「そういうことを簡単に言っちゃダメだよ。俺は、君を手に入れたらもう離さないよ?」
「離さなくて良いよ~」
「だから、美久ちゃん、君、酔っ払って何も考えてないだろ。」
「それくらい、分かるよ。遼一はなんだかんだ言って本当は私なんかどうでも良いんでしょ?」

 遼一はため息をついて美久を見下ろした。

「本当に良いの? 美久ちゃん。覚悟はある?」

 覚悟。その言葉の意味を判断できる状態に、そのとき彼女はなかった。

 ただ寂しくて、優しくしてくれる手に縋りたかった美久は、酔いも手伝って、まったく無防備に頷いた。遼一の心の内のことなど、一寸も疑わずに。それまでの彼の姿がすべてだと信じ込んで。
 


下化衆生 (甘美なる闇の中へ) 4 

下化衆生 (R-18)

 そのまま遼一の部屋に泊まって、翌朝すっきりと出勤した美久は、露ほども疑ってはいなかった。遼一に陰の姿があることなど。

 ごろごろと喉を鳴らして甘える子猫のような美久を、その夜、遼一は丁寧に愛し、抱きしめてくれた。

 それで、美久は思いのほか、失恋の痛手をいつまでも引きずることもなく、仕事へと集中することが出来たのだ。

 そして、美久の勤める企画会社で、新たな仕事のプロジェクトが始まり、美久もその一端を担うことになった。そのときパートナーを組んだ仕事仲間に、惚れっぽい美久は次第に心を奪われる。仕事は確かに忙しく、わくわくと充実していた。

 比較的大きな企画を抱え、軌道に乗るまでは気が抜けない眠れぬ夜も過ごした。それで、時々かかってくる遼一からの電話にもろくに答えられない日々が続いたのは確かだった。

 しかし、遼一に限らず、大学時代からの仲間達とはそうやって普通に連絡をとり、或いは忙しくてお互いにすれ違ってみたり、ということは常だったので、美久はさして気にも留めなかった。

 何度目かの電話に出そびれて、慌ててかけ直したとき、遼一は忙しそうな美久に一言低い声で言った。

「美久ちゃん。俺を怒らせるようなことはしないでね。」
「えっ?」

 と聞き返したときには電話はもう切れていた。

 ええと、…何のことだっけ?
 そういえば、最後に会ったあの夜…う~んと、何か言われた気がする。なんだっけ?

 美久にとって、彼は気の置けない友人、という定位置だ。そして、恐らくかなり尊敬している人物の部類に入る。男として見たことはない。だから、何か怒らせること、というのが思い浮かばなかった。しかも、今現在、彼女は会社の同僚にほのかに思いを寄せていたのだ。それが好意の域を出ないにしても。




 その日、プロジェクトが一段落し、美久はその仕事仲間と中間祝いの祝杯をあげていた。そこは、メンバーもよく行く居酒屋だったので、その日、美久がその彼と飲み交わしているところに、たまたま遼一が一人で飲みに来ていた。

 美久はまったく気付かなかったが、遼一は、美久のどこか幸せそうにはしゃいでいる姿をずっと見つめていた。それが‘恋’の初期症状であることは、長い付き合いの彼にはひと目で分かっただろう。

 飲み会が解散となったとき、遼一は店の外で酔っ払ってハイになっている美久を捕まえた。

「やあ、美久ちゃん。ご機嫌だね。」

 その口調の冷ややかさに、美久はまったく気付かない。

「あ、遼一。…あら? 店にいたの?」

 やや足元のあぶない美久の身体をさりげなく支えて、遼一は言った。

「俺の部屋で少し酔いを醒ましていくかい?」

 遼一のアパートは繁華街のはずれで、そこから歩いて行ける距離だったのだ。飲み会帰り、何度か立ち寄ったことがあるし、皆で彼の部屋に泊まってしまったこともあった。

「うん。…そうしようかな。」

 次第に眠くなってきた美久は何の気なしにそう答える。微塵も疑っていない無邪気さで。



下化衆生 (甘美なる闇の中へ) 5 

下化衆生 (R-18)

 そして、目覚めたらこの事態に至っていたのだ。

「美久ちゃん、自覚ないみたいだから、教えてあげようか。」

 すうっと細い指が首筋から髪の生え際をゆっくりとなぞる。腰の辺りがざわりと粟立ち、見下ろされて瞬きもせずに見据えられる視線の鋭さに、射抜かれそうな恐怖を感じる。

「言ったよね? 俺から逃げられないよ、って。それでも、良いのか? って。俺を裏切るようなマネは今後二度としない方が良いよ?」
「…う…裏切る…って。だって、そんな…」
「そんな?」

 ごくりと唾を飲み込んで、美久は必死にその視線を受け留める。

「あの…私は、別に…」

 遼一は、「何?」 と先を促すように微かに首を傾げる。

「私は…、私は、まだそんな、誰も…」
「君は俺のものだよ。」

 間髪入れずに答えを返される。

「ど…して…」
「どうして?」
「私は、ものじゃないから…っ」
「俺のものだよ。」

 静かに繰り返されて、美久は言葉を失って口を閉じた。

「良い? 美久ちゃん。浮気は許さないよ。そんなことをしたら、俺に殺されることは覚悟しておいてね?」

 笑みを浮かべて遼一は唇の端をあげる。すうっと指先が髪の中に滑り込み、地肌に触れる。思わずその瞳に射竦められた美久は、彼の唇の感触を耳たぶに感じながら、ほぼ無意識に小さく首を振る。

「だ…って、りょ…いち…」
「何?」

 驚くほど近くで囁かれ、熱い息遣いを首筋に感じた。そして、髪の中をまさぐるような手の動きに背筋にゾクゾクと何かが走り続けている。

 遼一は今まで誰のものにもならなかったし、誰のことも好きにならなかった。そうじゃ…なかった?

 男としての魅力がない訳じゃない。だけど、…美久にとってはどうしてか恋愛対象外なのだ。あまりに長い間、良い友人としてきてしまったせいもあるだろう。そして、あのメンバーの中に、遼一を本気で好きだった子がいたという事実を知っていることもあるかも知れない。それでも、彼は角が立たないようにやんわり断ってきたことも知っている。

 遼一とは、そういう男であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。 
 そう、今の今までは。

「異議申し立てがあるなら、聞いてはあげるよ。」
「…異議…って、待って。その…っ、私は、遼一のことはそんな風には思えない。」
「良いよ、それは別に。ただ、君が他の男に懸想したりしなげればね。」
「け…懸想って、何っ?」

 くすり、と遼一は笑う。そして唇が耳の下に触れるのを感じる。

「じゃあ、分かり易く言ってあげる。君が俺のものだ、って自覚しているなら、それで良いよ。他の男に触らせたりしなければ。そして、いずれは俺と一緒に暮らしてくれるならね。」
「い…いずれは?」
「そうだね、出来れば今週中とか?」
「え、ええっ?」
「まぁ、待っても今月いっぱいかな。」
「ち…ちょっと待ってっ」
「形式はその内に整えるから、気持ちの上ではもう少し待ってあげるよ。今はとりあえず、身体に教えておいてあげる。それが一番手っ取り早いし?」

 愕然、とした。彼のその物言いに。どういう意味か、なんてあまりにも明らかだ、この状況では。

「ま…待って、遼一。そんなの、イヤ。」
「君が決めたことだよ?」
「ち、違うっ、そんなこと、私は何も…っ」
「俺は何度も聞いただろ? 覚悟はあるのか? ってね。」

 すとん、と声のトーンが低くなった。それはぞっとするほど冷たいバリトンで、表情は見なくても分かるような気がした。およそ、それまで美久が知っていた遼一では、明かに、なかった。

「あの…っ、遼一…待って。こんなの、イヤ。おかしいよ。」
「異議申し立てなら聞くよ、言ったろ?」
「だ、だから。…私は遼一をそういう対象には考えたことない、の。」
「知ってるよ。だから、今はまだ良いよ。心の問題はね。どうせ、君が欲しかったのは慰めてくれる相手だった訳だろうし。」

 分かってるんじゃないの。そうだよ、だから、それだけなんだって。

「でも、それは君の側の言い訳だろ? 俺は君を手に入れた。言っておいたよ、一度抱いたらもう逃がさないよ、ってね。もう、逃げられはしないよ。…そうだね、そういう気が起こらない程度のことは教え込んであげる。」

 その声色は途端に甘くなり、内容さえ聞こえていなければ甘いささやきのような柔らかさを湛えていた。

「待って、…待って、遼一。そんなのイヤ。私は、まだ決めてない。まだ、何にも…っ」
「じゃあ、今、覚悟を決めな。」
「異議申し立ては聞くって…」

 美久の声は悲鳴のようになった。

「聞くよ? 聞いてるだろ? 君、何か明確な反対意見のひとつも言ってる? 建設的な意見を?」
「だって、そんな…っ」
「俺を納得させる反対意見があるなら、考慮してあげるよ。」

 いつの間にか美久の顔を覗き込んでいる遼一の目は、どこか面白そうに微笑み、威嚇するように挑戦的な光を放っていた。

 あまりに予定外、予想外の彼の言動に、美久の頭の中はほぼ真っ白で、何かを反論するどころではなくて、遼一の言葉の意味を理解しようとするだけで精いっぱいで、実はそれすら機能しているのか怪しかった。

「遼一の口に勝てるわけないじゃん。」

 泣きそうになって叫ぶと、不意に遼一は笑い出した。しかしそれは楽しくて笑っているという様相ではなかった。くっくっと喉の奥でイヤな笑い方をした後、遼一は思わずぽかんと彼を見上げた美久に更に冷たい視線を落とした。

「そうだよ、分かってるね。その通りだよ、美久ちゃん。それに、君が勝てるようなこと、仕掛ける訳ないだろ?俺はどうしたって君を手に入れたい。逃げられる隙なんて与えないよ。」

 今度こそ、美久の頭の中は真っ白になった。
 何を言われているのか、それすら把握出来なくなりそうだ。

 言葉が意味を成さないままに通り過ぎている。分かっているのは、遼一の瞳の奥に浮かぶ狂気の色。今まで、少なくとも美久には見せたことのない顔。選択の余地など一切ない今の絶望的な状況だけだ。

「そろそろ諦めて大人しく言うことを聞く気になった?」

 その笑顔の甘さに、どくんと心臓がはねた。恐怖なのか嫌悪なのか…それとも、暗い欲望のうねりなのか、分からない。
 意図せず、反射的に首を振っていた。はっとしたときには、ふうん、と声に出した遼一の手が頬を撫で、それがすうっと首筋におりていた。

「や…っ」

 そのまま滑り降りていく指先が、まるで壊れそうな繊細なガラス細工に触れるように胸のふくらみを撫でる。触れるか触れないかの微妙なタッチがくすぐったいような官能をそそる。腰の辺りがざわざわするような感覚だ。

「やめて…っ」

 美久はその手の動きとはまったく連動しない遼一のしんと静かな瞳を避けようと、精いっぱい顔を背ける。あの目に見据えられたら身動きすら取れなくなってしまう。そんな甘い鋭い不躾な視線だ。
 不意に乳首に鋭い痛みを感じて美久は叫んだ。

「きゃああっ」

 背中が痛みに反応して硬直した。手足を動かせないとは身体を庇えないということだ。美久は恐怖に固まる。呼吸すらぜいぜいと喘ぐように不規則に乱れ、あまりのことに一瞬意識が飛びそうになった。

「ちゃんと俺を見ろよ、美久ちゃん。そういう態度は気に入らないな。」

 恐怖に目を見開いて彼を見上げた美久を、遼一は妖艶な笑みで見つめる。ぺろりと唇を舐めた舌がまるで熱を帯びたように赤い。そこそこ整った造りの彼の顔は、そのときぞっとするほど美しく見えた。そして、乳首を噛まれたのだとそのときぼんやりと理解する。

 もう、美久は何か言葉を発するどころではなかった。許しを請うことも声をあげることも憚られて、ただ、言われたことを必死に意識に留める。

 ほぼ放心状態の美久の怯えきった表情を冷然と見つめ、遼一はするすると縛っていた腕の紐を解き始めた。その手の動きを見つめながら、やっと解放される安堵などより、むしろ自由になった後、何をされるのかの見当がつかずに、美久はただ茫然と彼の綺麗な手を見つめていた。力仕事などしそうにない細くて繊細な指だ、などと見当違いな感慨を抱きながら。

 両脇に下ろされた腕は、痺れたように力が入らず、美久はすでに一切の抵抗を諦めてされるがまま横たわったままだった。遼一も何も言わない。ちらりと視線を合わせた後、無言で彼女の足元に身体をずらす。足枷に手を伸ばすと、それはじゃらりと耳障りな音が響き、その金属音が背筋を撫でたかのように背中が寒くなった。

 遼一の部屋のベッドは東の壁側に置かれてあり、窓は南に向かう一箇所だけだ。そして、枕は南向きになっている。パソコンデスクがベッドと反対側に置かれ、洋間の中央には向かい合わせのソファと真ん中にテーブルがある。ここで、よく仲間たちと夜を明かした。ベッドとソファとに適当に眠って、遼一の淹れてくれるコーヒーで目を覚ましてそれぞれが日常に戻っていった。そんな日々が陽炎のように浮かんで消えうせた。

 右足の足枷を外した後、もう片方には遼一は触れなかった。全部を外してくれる訳じゃないんだ、とどこかで考えた。そして、それを思ったことを気付かれたくなくて、美久は思わず視線を背けようとして、はっとする。そんなことをしたら、また何をされるか分からない。

 覚悟を、した。
 もう、何をされようと逆らってはいけない。

 しかし、遼一は不意に毛布を掴んでそれを美久の身体にふわりと掛けた。

「今夜はもう大分夜更けだよ。続きは明日にしてあげる。」

 そして、くい、と顎を指先で引き上げて、ほとんど虚ろな美久の口に唇を重ね、唇を割って舌を差し入れた。ぴくりと身体が反応して、美久はどこか冷静に、呆れている自分に気付く。

 まだ、どこかで信じたい。
 これは…何かの間違い。
 これは…遼一じゃない。

「その代わり、明日は定時で仕事を終えて、まっすぐここに帰っておいで?」

 間近で真っ直ぐに見据えられ、美久は小さく頷いた。

 遼一の言葉を美久はただ必死に追っていた。それ以上の何をも、もう考えられなかった。ここで、それをしたらもうお仕舞いだとどこかで分かっているのに、何故かその警告を無視することを選んでしまったのだ。

 逃げることなんて不可能だ。この町に住む限り、同じ仕事を続ける限り、彼の手の届かない場所なんてない。今、アパート住まいの彼女だったが、実家ですら都内なのだ。

 怯えたまま、微かに震える唇に遼一の指先が触れた。目の前の彼の顔がぼやける、と思った次の瞬間には…。ふっと遼一が笑った気がして、彼女の意識はすとんと闇に堕ちていた。



下化衆生 (甘美なる闇の中へ) 6 

下化衆生 (R-18)

 明け方、ふと生理現象に目を開ける。

 半分、寝ぼけたまま身体を起こそうとすると、ぐい、と腰を抱き寄せられ、美久は思わず「ひゃ…っ」と声をあげた。妙に背中が温かいと思っていた。人の肌の温かさだったと頭が理解したとき、昨夜のことが鮮明に蘇ってきた。

「どこに行くの?」

 背中から遼一のくぐもった声が聞こえ、彼もまだ半分眠ったままなんだと予想がつく。

「あ…あの、トイ…お手洗い…貸して」

 どくどくと心臓がはねる。酷い目に遭ったことを、身体の方が覚えているのだろうか。まだ外はうっすらと朝日が顔を出した辺りだろう。部屋の中は薄暗い。しばらく待っても返事はなかった。次第に我慢がきつくなってきて、勝手に抜け出しても大丈夫だろか、とそろそろと彼の腕をすり抜けようとすると、遼一はふっと腕を緩めた。

 ほっとしてベッドから足を下ろし、なんとなく違和感をおぼえながらも立とうとした瞬間、不意にじゃらりという金属音と共に左足が動かせなくなった。

 ぎょっとして振り返り、布団の中に隠れていてもその存在感に背筋が凍るほどの物体に、そうだった、と思い出す。ざわり、と背中が粟立つ。夢でも幻でも勘違いでもない。あれは、現実だったのだ、と今さら思い知らされた。振り返っても、遼一はまだ目を閉じている。

 鍵さえあれば自分で外せる。だけど、勝手にそんなことをして怒られるんだろうか? そもそも、その鍵はどこだろう?

 ベッドの周囲を見回してもテーブルの上を見てもそれらしいモノは見つからなかった。

「り…遼一…」
「何?」

 目を閉じたまま彼は聞く。

「あの…これ、外して?」

 裸のまま、毛布をそろそろと引き寄せて美久は細い声を出す。

「イヤ」
「…え?」
「後片付けはしてあげるから、そこですれば?」

 目を開けて静かに美久を見上げた遼一の瞳の静けさに、彼女は耳がおかしくなったのだと思った。

「それとも、何か入れ物欲しい? ビニール袋とか、洗面器とか?」

 愕然、としてベッドに横たわる男を見つめた。冷たくはないし、狂気の色を宿した訳でもない、いつものごく普通の表情で、彼はそんなことをさらりと言ってのける。美久は本気で泣きそうになった。どうしようもなく声が震える。

「り…りょ…いち? …お願い…。お願い、言うことを聞くから…。何でも言うことを聞くから、それは許して」

 身体が震えるのが分かる。ざわざわと背筋が冷えて、いよいよ生理現象も我慢が出来なくなってくる。遼一は毛布を抱いたままほとんど泣き顔の美久をしばらくじっと見つめたまま動かなかった。

 やがて、身体を起こした遼一はくすりと彼女を見下ろした。

「良いよ」

 そして、どこから取り出したのか、小さな鍵でさっと足枷を外し、ガウンを着せ掛けてくれた。

「ついでにシャワーも浴びてくれば?」

 まったく彼の心の内が見えなかった。淡々とそう言われ、美久はともかく慌てて頷いてバス・ルームに駆け込んだ。心臓が早鐘のようだった。



下化衆生 (見えない鎖に縛られて) 7 

下化衆生 (R-18)

 いってらっしゃい、と笑顔で見送られ、美久は必死に笑みを浮かべてみせた。

 恐らく遼一にしてはごく普通の朝食。コーヒーとトーストと簡単なサラダ。それを一緒に食べて昨日の服そのままで出勤した。ああ、今夜も家に帰れない。どうしよう? 下着とか化粧品とか、帰りにスーパーにでも寄らないと。

 頭を切り替えるにはそういうくだらないことを一生懸命考えるに限る。
 それでも、仕事はした。
 それだけは気を抜けない。昨日と同じ服を誰も不審に思わずにいて欲しいと願いながら。

 残業するほどでもない、と判断し、美久は本当に定時に会社を出る。とりあえず、今日は金曜日。あとは週末に突入だ。

 ほっとして外へ出た途端、一気にいろんなことを思い出した。

 真っ直ぐ帰って来るように…と言われてはいたが、最低限、必要な物だけは準備させてもらっても良いだろう。
繁華街から程近い遼一のアパートと違って、美久は電車に乗らないと自宅アパートには辿り着けない。そこに取りに戻る暇はなさそうだ。

 百貨店で、化粧品と安い下着などを探して、美久は急いで彼のアパートへ向かう道を歩いた。何も考えは浮かばない。どう対処すれば良かったのか、そして、今後、どうすれば良いのか。
途中、商店街を通り過ぎるとき、不意に後ろから腕をつかまれ、美久は叫びそうになる。

「おかえり、美久ちゃん。早かったね」

 そこには遼一がいた。Tシャツにジーンズというラフな格好で、ポケットに財布一つの身軽ないでたちだ。

「声を掛けても気付かないで通り過ぎるんだもの。せっかくだから、一緒に夕飯の買い物しない?」
「…」

 今朝までの異変をまったく感じさせないいつもの遼一がそこにはいた、ように見えた。
 屈託なく微笑まれ、美久もつい笑顔を返してしまう。

「仕事、疲れた? 何が食べたい? 今日は俺が作ってあげるよ」

 にこにこ話し掛けてくる遼一の表情に、美久はどう応えて良いのか分からない。そんな美久の怯えた様子にはお構いなしに、彼は普通に話し続ける。

「そろそろ涼しくなってきたし、シチューとか、鍋物とかどう?」
「…鍋はまだ早いんじゃ…」

 思わず、条件反射のように答えてしまって、美久ははっとする。

「そう? 昨日は会社の男と鍋、食べてなかった?」

 声のトーンが一段下がったのが分かった。遼一の瞳にさっきまでなかった青い光が揺らめく。美久は昨夜の居酒屋で煮込み鍋を食べたことを思い出した。野菜と白身魚が少し入った、ほんの数人分の小さな鍋だった。それを祝杯をあげながら確かに同僚と仲良く食べたばかりだった。

「…ええと、だから、昨日食べたから、今日は別のものを食べたい…かな」

 咄嗟に小さな声で美久はそう言って遼一から視線を外す。一瞬、声が震えたのが自分でも分かった。

「そう? じゃ、俺が適当に選んで決めて良い?」

 美久はこくこく頷いてみせる。つかまれた腕から冷気が押し寄せてくるようで、身体がこわばるのが分かった。いつものことなのだろう、遼一は商店街の店主たちと楽しそうに会話を交わしながら買い物を進める。それほど値切ったりしないのに、皆進んでまけてくれるのはお得意さまだからなんだろうか。

 一通り買い物を済ませ、二人は帰途に就く。さり気なく繋がれた手が、ほかっと温かかった。男性の方が体温が高いのだろうか?

「…そういえば、遼一。今日は会社に行ってないの?」

 今朝、見かけた服装もスーツ姿ではなかったと気がついて美久は横を歩く彼を見上げる。

「ああ、今日は出勤日じゃなかったんだ。今の仕事はデータを作って送信すれば良いってのがほとんどだから、週に2~3度顔を出すだけで良いんだよ。…って前に話さなかった?」
「え? ご、ごめんなさい。覚えてない…」
「…まあ、そうだろうねえ」

 どこか皮肉な口調で遼一は美久を見下ろす。

「今までのことはもう良いよ。でも、これからは俺の言ったこと、しっかり覚えていた方が良いよ」
「は…はい」

 少しトーンが落ちた声色に美久は慌てて返事をする。



下化衆生 (見えない鎖に縛られて) 8 

下化衆生 (R-18)

 一人暮らしが長いせいか、遼一の手料理はおいしかった。座ってて良いからと言われて美久はダイニングにあるテレビをつけたまま、ぼうっと椅子の上で遼一の後ろ姿を見つめていた。

 慣れた手つきで手際よく調理をしていく遼一。
 時々、昔みたいな他愛ない話をしながら、にこにこしている彼は、昨夜の遼一と同一人物には思えなかった。

 食事を終えて片づけまで済ませると、コーヒーのカップを一つ美久に手渡しながら、遼一はソファを勧める。三人掛けの大きめの布張りソファ。ここで、皆で眠ってしまった夜が、今では遠い昔のような気がする。

「美久ちゃん、仕事、辞める気ない?」

 突然、そう切り出され、美久はびっくりしてカップを取り落としそうになる。

「…ど、どうして?」
「ちょっと事情が変わってね…」

 遼一はふとそう独り言のように呟き、美久の顔を見つめて目を細める。

「俺は、奥さんは家にいて欲しいし」
「お…奥さん?」
「言ったでしょ? 別れるつもりはないよ、って」
「…そ…」
「そ?」
「…で、でも、まだそんなのは、その、早いんじゃない?」
「別に。俺は今すぐでも構わないよ」
「で…でも。あの、私はまだ仕事は続けたいの」
「そうだね、楽しそうだもんね」

 遼一はちょっとため息をつく。諦めのような柔らかい空気を感じるのに、その奥に明らかな狂気の光が揺らめくのが分かって美久はぞっと青ざめて遼一の目を見つめる。

「まあ、それならそれでも良いけど。ああ、でも、美久ちゃん、俺、避妊する気はないから」
「…え、え?」
「だから、仕事は子どもが出来るまでだよ。子どもが生まれたら、そうだね、最低、3年は子どものそばにいて欲しいからね。よく言うでしょ? 三つ子の魂、百までって」
「…子…子ども…?」

 今度こそ本当に泣きそうになりながら、美久はカップをぎゅっと握り締める。
 そして、次の瞬間、ざあっと全身から血の気の引く音が聞こえる気が、した。

 排卵日。
 そうだ、そろそろ前回の生理が始まってから2週間になる。ここ数日は絶対に危ない。美久の生理周期はあまり乱れたことがないのだ。

 どくどくと心臓の鼓動が早まった。
 帰らなくては。今夜は何が何でも。

「…り…りょ…いち?」

 何? と言う代わりに遼一はコーヒーを飲み干したカップをとん! とテーブルに置いた。その音にぎくりと身体が強張る。

「あの…、あの、今日は…その…」
「危ない日だから帰りたい?」

 ぎょっとして美久は遼一を見上げた。そして、しまった、と思う。彼の目を見てウソがつけるほど美久は自分を偽れやしない。そもそも、彼女はウソがつけない。考えている事がすぐに顔に出ると誰もが太鼓判を押している。

「ち…ちがっ…」

 慌てて首を振る美久を余裕の笑みで見つめて、遼一はすっと立ち上がった。それでなくとも背の高い彼に見下ろされる形になり、美久はその威圧感に怯えて、反射的に後ずさった。

「コーヒーお代わり要る?」

 遼一はくすりと笑ってキッチンへ向かう。

「…ううん、私はもう…」

 声が震えるのを止められずに、美久は努めて息をゆっくり吸い込んだ。

「あの…、遼一?」
「ダメだよ、美久ちゃん。君の考えていることなんてお見通しだよ?」

 残りのコーヒーをカップに注ぎながら後ろ姿で遼一は言った。

「明日は仕事、お休みだろうし、今夜はゆっくり出来るよね」

 目を開けていても、周囲が真っ暗に見える。そんな光景を二度も目にする羽目に陥るとは。精神的に極度に追い詰められると、ヒトは貧血のために一瞬、目が見えなくなることがあるらしい。
 


下化衆生 (見えない鎖に縛られて) 9 

下化衆生 (R-18)

「イヤっ…イヤだ、遼一っ…お願い、いやぁぁぁっ」

 逃げようと玄関へ向かった美久をリビングの扉の前で捕らえた遼一は、そのまま彼女をベッドの脇まで引き戻し本気で泣き叫ぶ美久を背後から両腕ごと抱きすくめた。

「美久ちゃん? あんまり暴れて駄々をこねるとまた縛られるよ。それにね、良いかい? 嗜虐心のある男の前でそれは逆効果だよ。煽ってるようにしか感じられないよ」
「ち…違う…っ」

 くすくすと耳元に熱い息がかかる。涙が頬を伝い、こんなことはウソだと、まだ美久は思いたい。これは、自分が知っている‘瀬田遼一’という男ではない、と。

 それに、聞いてないよ?
 嗜虐心? 遼一にそんなものあるなんて聞いてない。

「ウ…ウソ…だ、よね? りょ、いち…そんなの…」
「何が?」

 遼一の声は追いつめているというより、本気で分からなくて聞いているという声色だ。

「嗜虐…って、そんなの…」
「ああ」

 と、遼一はくくっ、と喉の奥で笑った。

「知ってると思ってたよ。というより、気付いてないのは君だけだよ、美久ちゃん」

 そんな…
 ぞくりと背筋が冷える。

「君は男の生理をほとんど理解してないね」
「な…に、言ってるの?」

 ガクガクと膝が震える。遼一はもう答える気はないようだ。

「ねぇ、りょ…いち、ウソ…でしょ? イヤ、許して。許して…っ」

 嗚咽で言葉がうまく紡げない。何をどう言えば良いのか、さっぱり分からない。思考がほとんどストップ状態だった。

「冷静に考えてご覧、美久ちゃん。俺と結婚して、君に何が不都合でもある?」

 違う、そういうことじゃない。そうじゃない。
 でも、何が違うのか言葉ではまったく説明出来ない。そして、冷静になんて考える余裕はない。

「だ…って、怖い…っ」

 口をついて出た言葉に、美久自身が驚き、遼一もふっと腕の力を緩めた。

「どういう意味?」

 ぎくりとその声に美久の身体が反応した。遼一の声がどこか傷ついたような情けないような色を宿した。それは予想外のことで、美久は彼が何に怒っているのか分からなかった。ただ、感じたのは何か不用意な発言をしてしまった、という事実だ。

 背後で息を吸い込んだ遼一の気配を感じる。その怒気を含んだ冷気に美久は身が竦む。

 何かを言われるだろうと思っていたのに、彼は言葉にはしなかった。その代わりに、背後からきつく抱きすくめていた彼の腕がふっと力を緩め、彼女の身体を解放した。

 自由になっても、美久は振り返ることも出来ないほどその場の空気は不穏だった。膝から力が抜けて崩れ落ちそうだった。

 遼一は何も言わず、すっと彼女から離れてベッドに腰を下ろした。

「美久ちゃん」

 びくっと身体が反応する。

「冷静に話し合おう? こっちへおいで」

 その声はトーンは低いが静かで、怒りの感情は感じられなかった。美久はゆっくりと振り返り、遼一の顔をそっと見つめた。座っている彼は幾分低い位置にいて、いつも見上げる格好の彼女は初めて相手を真っ直ぐに見ることが出来た。

 目が合うと、彼は、ここへおいでと自分の横を手で合図する。

 恐る恐る美久は遼一の隣に腰かける。不意に彼の手が頬に触れ、驚いてその手を押えようとすると、彼の指が涙をぬぐってくれたことが分かり、彼女はそのときようやく涙が零れていたことを知った。

 遼一の手はそのまま美久の頬を包んでそこに留まり、間近であまりにじっと見つめられて、彼女は「あの…」と口を開きかけた。

「何?」

 ほとんど唇が触れそうに近づき、美久は慌てて遼一の胸に手を当て、彼の身体を押し戻そうとした。

「りょ…っ、ん、んっ」

 しかし、そんな抵抗はまったく意味を成さなかった。そのまま唇をふさがれ、美久は伸ばした手でそのまま彼の服を掴んだ。もがいても彼の腕はびくともしないし、抗議の声をあげようとするとむしろ深く舌を差し込まれるだけだった。

 次第に頭の芯がくらりと痺れてくる。
 唇を離して、ふらつく美久を抱きとめると、遼一は彼女の頭を胸に抱いて言った。

「美久ちゃん、俺と結婚してくれる?」

 胸から直接耳に声が響く。低くて静かな声が。

 どう答えて良いのか分からず、美久は軽く身じろぎする。何故、応えられないのか分からない。だけど、何か強烈なストップがかかり、それが彼女を支配する。

「私は…」

 息を吸い込んで、何か言葉を吐き出そうとするのに、どうしてか空気が肺の中に入ってこないような気がした。
 おかしい。ここ数日の彼はどう考えてもおかしいのだ。
 そして、いつでも美久は男に関しては独特の勘のようなものが働くのに、遼一に対してはまったく何も伝わってこない。分からない。

「…どうして、そんなに…急ぐの?」
「事情があるんだよ」

 不意に遼一の声のトーンが下がって、美久を抱いていた腕に力がこもる。

「ど…」

 どんな事情が? と聞く前にふわりと身体を持ち上げられ、すとんとベッドに沈められた。驚いて悲鳴をあげる間もなく、美久はあっという間に組み伏せられる。
 反射的に暴れてみるが、今度はもう抵抗出来る隙はなかった。

「りょ、いちっ、イヤ…っ」
「無駄だよ、美久ちゃん」

 もがく腕を両腕ごと左手で掴まれて頭の上に上げられる。そして、下半身は遼一に圧し掛かられているので動くことも出来ない。ゆっくりと遼一はもう片方の手で器用に服を脱がせていった。

 今度こそ本気で泣き叫んで美久は必死の抵抗を試みた。

「やだ、やだやだやだぁっ、いやぁぁっ」
「美久ちゃん? 君、考えてみる気ないんだろ?」

 遼一は美久のスーツの前ボタンを外し、ブラウスの小さなボタンも片手で器用に外しながら淡々と言葉を紡ぐ。

「俺がこうやって頼んでるのに、聞く耳ないだろ? もう少し自由にさせといても良いかと思ってたんだけど、そうもいかなくなったんだ。今日は最後までちゃんと躾けてやるよ。逆らう隙があるから無駄な希望を抱くだろ? そんな残酷なことはもうやめるよ」

 何を言ってるんだろう?
 むちゃくちゃなことを静かな瞳で語られて、美久は溢れる涙が視界をぼやけさせるのを茫然と眺める。

 背中を軽く持ち上げられてブラジャーのホックを外されたことを感じた。そして、そのままスカートのファスナーに手が伸びる。

「ど…して?」

 素朴な疑問だ。遼一の美久に対する異常な執着の訳は? 何故、自分なのか?
 ぽろぽろと涙を零す美久を一旦抱き起こし、そのまま一気に上半身を裸にする。そして、続けてスカートごと下着を引き下ろした。もう、美久は逆らう気力を失いかけている。

「りょ…いち、ど…して…」

 自らの服を脱ぎ捨てる遼一の姿を震えながら見上げて、美久はベッドの上に座り込む。

「お願い…、こんなのはイヤ。いやぁぁぁ…」

 泣き崩れる美久を見下ろし、遼一は無言で彼女に手を伸ばした。そして、涙に濡れてぐちゃぐちゃの顔を抱き寄せてキスで埋める。舐めとった涙の味に、遼一は「しょっぱいね」とくすりと笑った。

 そのまま腰を抱き寄せられてぎゅううっと大きな胸に抱きしめられ、美久は、どくん、と心臓がはねて訳の分からない感情の渦にぐらりとした。触れ合った肌の熱さに身体の芯が震える。

 一度すでに身体を合わせた筈なのに、まったく初めてのような気がした。

 今までに付き合った男性の数もそれほどではなかったにしろ、セックスの経験もそこそこあるのに、それでも、今、初めて男の人にこうやって抱かれた気がしていた。処女を失うときのような、奇妙な緊張感と、未知の体験への恐怖。

「美久ちゃん? そんなに緊張しないで? どうしたのさ。身体の力を抜いて」

 耳元でそう甘い囁きが聞こえるのに、美久は震える身体をただ持て余していた。まったく自分ではコントロール出来ない。

「こ…」

 しっかりと胸に抱かれたままゆっくりと押し倒され、力ではもうかなわないと知った美久は、最後に残った理性で必死に言葉を探す。

「こんなのは、イヤ。遼一…どうして? …どうして?」

 強張った美久の細い身体をただぎゅっと抱きしめて、遼一は涙に濡れたその顔を覗き込んだ。見下ろす瞳が、冷たいよりもどこか熱く切ない色に感じたのは気のせいだろうか。

「どうして? 聞いたら納得するの? 俺のものになってくれるの? このまま一生俺のそばにいる?」
「…そ…それは」
「分からないだろ?」

 くすりと冷えた瞳で彼は笑う。

「でも、契約は契約だ。今はそれで良いよ」
「え?」

 すうっと遼一の手が下へ伸びて、足の間を彼の膝が割った。驚いて暴れると、むしろ彼の手は安々とその間に侵入する。

「あ、あ、いやっ!」

 遼一の細い指がそこを正確に探り当て、柔らかいタッチで撫でる。そんなバカなと思うのに、濡れているのがはっきりと分かった。そのままいとも容易く指が穴の中に沈んでいく。

「う、あ…っ」

 手足に力を入れて全身で拒んでみるものの、彼の手は難なく奥へと進んだ。彼の指に粘膜が絡みついて捕らえようとでもしているのが美久にも感じられる。まるで、愛しいものを迎えるように。

「や…ぁ、ぁ」

 それほど中をかき回す訳でもなく、ほどなくしてすうっと遼一の指は出て行った。そして、美久の愛液が絡みついた指を顔の前に持ってきて、羞恥で真っ赤になっている美久の目の前に翳してみせる。それは怪しい光沢を帯びた液体で、ぬらぬらと湿って男を誘っているようだった。

「ふうん」

 とそれをじっと見て唸ると、遼一はその指をぺろりと舐める。ぞくっと身体の奥が熱くなった。その瞳の色を正確に読んで、遼一は微笑んだ。

「俺が欲しくなっただろ?」
 


下化衆生 (見えない鎖に縛られて) 10 

下化衆生 (R-18)

 違う、と口では言って、必死に抵抗しているつもりでも、身体が反応するのを止められなかった。

「イヤ、りょ…っ、いやぁぁっ」

 ぐい、と両足を抱え上げられ、彼が身体の中へ入ってくるのが分かった。ほとんど抵抗はなく、美久の身体はすっかり彼を受け入れる準備が出来ていたことが否応なしに感じられる。そのまま奥まで進んで遼一は更に美久の腰を抱き寄せて奥を突いた。

「あ、あ…っ」

 のけ反るような熱い快感が腰からせり上がってきて背筋を駆け抜けた。

「や…だ、遼一…中で出さないで。お願い、イヤだ…っ」

 必死に彼の背にしがみついて美久は懇願する。ぴったり肌を合わせたまま、まだ動かずにいてくれる間に、それだけはどうしても告げておかなければならない。

「りょ…んっ」

 尚も何かを言おうとした途端、口をふさがれた。今までにない熱く激しい勢いで舌を押し込まれ、舐め溶かすように舌をしゃぶられた。舌の裏を丁寧になぞられると下半身がぞくぞくし、交じり合った唾液が喉の奥に流し込まれていく。甘く熱いそれを何度も喉を鳴らして飲み込み、美久は次第にざわざわと腰の辺りが熱くなるのを感じていた。

 キスだけでイカされそうだった。
 きゅうっと中の彼をきつく抱きしめる。

 遼一は微かに腰を揺らすだけで、ほとんど動いてはいない。それなのに、もう美久はむずがゆい熱に翻弄され始め、これ以上、どんな小さな刺激でももう耐えられそうになかった。

 美久の様子に気付かない遼一ではない。背にまわしていた腕で更に彼女の身体をきつく抱き寄せ、自身を押し込む。そして、舌を絡めたまま片方の手で、胸をつかみあげ、指の間に挟んだ突起をくりくりと弄んだ。びくん、と美久の身体がのけ反り、次の瞬間、射精を促すように彼を包む粘膜が痙攣を始めた。

 足のつま先まで痙攣が走り抜けた美久の身体は、緊張状態から一気に解放され、脱力した。
 やっと唇を離し、遼一は虚ろに空(くう)を見つめる彼女の顔を見下ろした。

「美久ちゃん、君、感度良いね」

 くすりと意地悪な笑みを浮かべる。
 まだ、恍惚感から抜け出せずに、美久は喘ぎながら彼の瞳に焦点を合わせた。

「…りょ…」
「自分は気持ち良くイッたのに、俺には中で出すな、って?」

 くくく、と遼一は喉で笑う。
 青ざめる美久の様子に構わずに、遼一はにこりと笑った。

「良いよ、今はやめておいても。その代わり、言っただろ? 契約書は書いてもらおうかな」
「え?」

 ぼんやりした頭で、美久の思考はさっぱり働かない。

「良いだろ?」

 なんだか分からないが、コントロールしてもらえるなら、今は何でもする。美久は半分以上、放心状態のまま頷いた。

 それを確認して遼一は身体を放す。遼一は上着だけを羽織って、美久の身体を抱き起こした。タオルで前を隠しただけの美久をソファに座らせ、遼一はパソコンデスクへ向かい、そして、机の引き出しから出してきた用紙は…

「婚姻届?」

 茫然、として美久はその公文書用紙を凝視する。ペンと朱肉を机の上にとん、と置き、遼一はほぼ無表情で美久を見下ろした。二つ並んだ署名欄の片方は既に彼の名前で埋められている。

「どうぞ?」

 一度、遼一を見上げて、救いの色のない瞳に出会い、美久は恐る恐るテーブルの上の用紙に視線を落とした。まるで、視線をそらした瞬間に消えていてくれるのではないかと期待したように。

「こ…これ…」
「書いてくれるよね?」

 脅すような低い声が上から降ってくる。

「それとも…」

 ゆっくりと遼一は美久の横へ歩み寄る。ぎくりとして彼を見上げると、遼一は妖艶な笑みを浮かべてその手を美久の抱えていたタオルの中へ滑り込ませる。

「子作りしても良いけど? 今、ここで」
「…っ」

 そのまま彼女の身体を抱え上げようという気配を感じて、美久は慌てて悲鳴のような声をあげた。

「待ってっ、待って。…書く。書きます」

 必死に遼一の上にしがみついて美久はその手を押し留める。
 ああ、そう、と遼一は言い、すっと彼女から離れた。

「で…でも、あの…っ」

 哀願するような視線で遼一の姿を追う美久を、彼は窓に寄りかかって見下ろした。

「何?」
「…これ…今すぐ…出すんじゃ…」
「ああ、まだ提出はしないよ」

 青ざめてはいても、明かにほっとした安堵の表情を浮かべた美久は、それでも、震える手でペンを握った。
 書いても提出さえしなければ…
 そんなこと、何の保証もないのに、美久はもう冷静にモノゴトを判断など出来なくなっていたのだろう。
 

下化衆生 (見えない鎖に縛られて) 11 

下化衆生 (R-18)

 ほとんど泣きそうになって美久が署名を終えた用紙を受け取って、遼一は、ありがとう、とそれを封筒に入れた。それをデスクの引き出しに入れるのを見つめて、美久は意識がそこに集中し続けるのを止められない。

 遼一の隙をついて、盗み出して処分することを、ぼんやりと夢見る。
 はっと気付くと遼一の腕の中にいて、美久は思わず声をあげた。遼一はそのまま彼女の身体を抱え上げて再度ベッドへ下ろす。

「…りょ…っ」

 有無を言わさず口をふさがれ、腕を押さえ込まれる。
 バカだ。こうなることを予想出来た筈なのに。その対策を何にも講じなかった。せめて、服を着せてくれと言うべきだった。

 自らの愚かさを呪いながら美久は、必死に遼一の腕から逃れようともがく。もう、涙も出なかった。
さっきとは違って、遼一はもう容赦しないとでもいうように乱暴なほど強く胸を揉む。痛みに近い刺激で、美久は押さえ込まれた腕をなんとか解放してもらおうと必死に身をよじった。必死に横を向いてキスから逃れ、美久は叫ぶように言った。

「今はもうしないって、言ったのに!」
「中で出すことは、ね」
「…え?」
「中に出さなきゃ良いんだろ?」

 その言い草に驚いて視線を戻すと、不敵な笑みを浮かべる遼一と目が合った。その細められた切れ長の目に見据えられると、ついさっきほぼキスだけでイカされたことを思い出して顔が赤らんだ。

「それに、たぶん大丈夫だよ。もう、排卵終わってるよ。排卵日の前に仕込んでおかないと受精成立しないよ」

 涼しい顔でそんなことを言われ、美久は真っ赤になりながら呆れた。

「…な、…なんでそんなこと知ってるの? …じゃなくて、なんで排卵終わってるなんて分かるのよっ?」
「なんとなくね」

 にやりと遼一はうろたえる美久の目を覗きこんだ。

「まぁ、外れてたって俺は別に困らないし」
「…私は、困る…っ」
「だから、今夜は中出ししないよ」
「…」
「でも、セックスはいっぱいしようね。週明けまで時間はたっぷりあることだし」

 にこりと微笑んだ遼一の目は、威嚇するような肉食獣のものではなく、むしろ母を恋い慕う子どもの光を宿しているように見えた。
 


下化衆生 (見えない鎖に縛られて) 12 

下化衆生 (R-18)

 はっと気付くと、美久は遼一の腕に背後から抱かれていた。大きな胸、温かい腕。
 子宮がまだうっとりと熱を帯びている気がした。

 そして、絶頂を迎えた甘い感覚が身体に熱として残っている。結局、遼一が本当に避妊してくれたのか、もう美久には途中から分からなくなっていた。

 何度も白い世界を味わい、何度も意識が飛んだ。

 今まで、男にこんな風に抱かれたことはなかった。身体が溶けてしまいそうなほど、自分では何も制御できない状態に押し上げられて、すでに自分が何を言っているのか分からないなんて。意識が飛んで目覚めてもまだ下半身は繋がったままで、片足を持ち上げられて交差するように交わっていたり。そうかと思えば、一分の隙間なく肌を寄せて腕の中に抱かれていたり。

 ケモノが捕えた獲物を食すように、肩の線を、鎖骨のラインを、胸の谷間を舐められて、噛まれた乳首に痛みが走った。生暖かい感触が全身を這うように撫でるのを夢の中のように感じていたが、気がつくとあちこちに吸われた痕が残っていて、ぎょっとした。

 背骨の線と腰からわき腹にかけて、息を吹きかけられただけでのけ反るように敏感なことを初めて知った。
 男女関係に淡白で、そして、ついでにセックスもすごく淡白だと、遼一を知る誰もが言ってたよね?

 こんな、ただ奏者の意のままに操られる楽器のように鳴かされ続けて、失神してもなお身体は勝手に反応して男を受け入れるなんて。これは私の身体じゃないのか?

 狂った夢を見ていたのだろうか。
 ウエストのくびれの部分に腕が背後から交差し、腰を抱かれていた。

 背中がぴったりと遼一の熱い胸に抱かれていて、奇妙な安堵感があった。人の肌は優しい。
 周りは青い闇の中だった。まだ、夜明けまでは時間があるようだ。
 薄目を開けたものの、美久は再度とろとろと眠りに落ちていく。

 ずっしりと身体が重く、指先ひとつ動かしたくない。規則正しい寝息が背中から聞こえる。遼一も眠っているのだろう。もう何も考えたくないほど眠かった。

 意識が闇に包まれるのは一瞬のことだった。



下化衆生 (見えない鎖に縛られて) 13 

下化衆生 (R-18)

 熱い。
 なんだろう? 身体が熱い。

 はっと目を開けると眩しくて、視界いっぱいに光が満たされていて、まず目に写ったのは見慣れない、だけど見覚えのある天井。そして、何故か視界が揺れてヒトの顔が見えた。

「…あ、あ、ぁぁあっ」

 思わず漏れる声に、自分でぎょっとした。訳が分からずに、美久は腕を持ち上げて、何かにしがみつこうとする。その途端、まるで溜まっていた熱が一気に腰の辺りををカッと熱くして痺れのような快感が走る。視界は一瞬真っ白になって背筋が硬直して痙攣した。

 続いて、身体の奥に熱いものが流れ込む感触に愕然とする。
 はぁはぁと息を切らせたまま、やっとしっかりと目を開けて美久は目の前の男の顔を見つめた。

「な…に、して…」
「おはよう、美久ちゃん」

 うっすらと汗を浮かべて、遼一もどこか恍惚とした光を瞳に浮かべていた。抗議の声はまったく届いていないようだ。

「キスしても起きないし、ゆっくり挿入してみてもしばらく目を覚ます気配なかったから」

 から…って、そんな。

 朝っぱらから、何でそういう流れになるの? もうこっちはほとんど動けないのに、何で、こいつはこんなに元気なんだろう? 信じられない…

 放出を終えたはずなのに、遼一は出ていく気配はない。しかも、つまり、中に思い切り射精したんだよね?

「や…だ、もう、放して」
「ヤダよ」

 身体をよじってみてもがっしりと腰を抱かれているので大して動けない。しかも、下半身は繋がったままなので姿勢を変えようとすると中をかき回されるような刺激を受ける。

「このまま一日繋がっていても良いよ、俺は」

 唖然とした。美久を見下ろしてにやりと微笑む彼の目は、決して冗談を言っているようではなかった。冗談でしょ? と笑えば良いのか、怒れば良いのか、それとも止めて、と哀願すれば良いのか…。

 遼一は、青ざめて言葉を失った美久を見て笑うと、片方の手を伸ばしてベッド脇の小さなテーブルの上からカップを手に取った。それを一口含んでカップを戻し、ゆっくりと顔を近づけてきて美久の口にそれを流し込もうとする。

 思わず顔を背けて口を閉じると、空いた手で鼻をつままれ、苦しくなって口を開けるしかなくなった。

「…ふっ…ん、んっ」

 流し込まれたその液体はコーヒーだ。そういえば、ほんのりとコーヒーの香りが漂っている。遼一が起き出してコーヒーを淹れても、美久は目を覚まさなかったのだ。

 苦味が口の中に広がり、遼一は口をふさいだまま舌を絡ませてきた。巧妙な舌使いに下半身がむずむずしてくる。やがて遼一が小刻みに腰を揺らし始め、くちゅくちゅと水音が響いてきた。

 揺れ幅が大きくなってくる度に、中に注がれた精液が押し出されて溢れてくるのが分かる。後ろの穴までしっとりと濡れてきた。

 昨夜、さんざん突かれた子宮の入り口が、こすられた膣の粘膜が悲鳴をあげている。まるで処女幕が破られたときの痛みに似ていた。

「んん、んっ」

 もうイヤだとどれだけ腕を突っ張ってみてもしがみついてみても、遼一の腰の動きは次第に大きくなり、激しい舌の動きも止む気配はない。苦しくなって、美久は浅い呼吸を繰り返す。

 もう、ダメ。もう、イヤ。もう…おかしくなる…っ

 頭の芯がぼうっと白く霞み始める。不意に口中に新鮮な空気を感じて、美久は声をあげる。それは切なくも甘い喘ぎで、むしろ遼一の官能を誘った。

「ぁ、ぁ、ぁぁ…、ぁっ」

 何度も繰り返しイッた二人は、上り詰めるのに時間がかかった。大きく抜き差しを繰り返し、遼一は最後には美久の両足を股関節から折り曲げて更に奥深くをえぐった。鋭い痛みと鋭い官能に、美久は一気に痙攣する。そして、それを感じて遼一もなんとか上り詰め、奥深くへ突き刺したまま最後の熱を放った。

 ゆっくりと最後の一滴まで注ぎ込んで、やっと遼一は美久の身体を解放する。

 はぁはぁと荒い息遣いで美久の横に倒れこみ、遼一は満足そうに、たった今まで中にいた細い身体を横から抱き寄せた。

 両手両足で絡みつくように抱きしめられ、美久は半分朦朧とした状態でいた。

‘俺のものだ’と遼一は言った。
 確かにモノ扱いだ。

 こんな風に人としての尊厳も権利も何も認められない。正気でいて、考えて決定する時間を与えられず、ただ溺れさせられる。思考を奪われ、もう、何もかもどうでも良いような気分にさせられる。

 自分の身体どころか、意志すら自由にならない。

「そうだよ、美久ちゃん。君の身体はもうもらったよ。あとは心も俺に従う覚悟を決めな」

 まるで美久の心を見透かしたように、遼一は美しい笑みを見せた。
 
 
 

下化衆生 (モト彼の告白) 14 

下化衆生 (R-18)

「この間、遼一のアパートの近くで一緒に買い物しているところを見かけたけど、君たち、今、付き合ってんの?」

 美久の元カレ、岩崎亨は悪びれもない調子で彼女の顔を覗き込んだ。

「…べ…別に、そんなんじゃ…」

 慌ててグラスのビールを飲み込もうとして、美久はむせる。

「ふうん」

 何を納得したのか、亨はジョッキをぐいっと空けて美久の様子を黙って見つめる。なんだか、別れたら、亨のどこを好きだったのかすら、あんまり思い出せない。話し好きで底抜けに明るくて、目が優しそうだったところかな。もう、ほとんど胸も痛まない。

 だいたい、別れる前の数ヶ月は、もう、会うことすらなくなっていた。そう、皆で集まる飲み会以外では。

「…な、何よ。用ってそんなこと?」
「そりゃ、お互いよりを戻すつもりなんて、ないだろ? それとも、今夜、このままこのホテルに泊まる?」

 からかっている、というよりは妙に真面目な顔で亨はつまみのスナックをぽりぽりかじっている。

「バカなこと、言わないで!」

 そんなことをしたら、遼一にどんな目に合わされるか…! 美久は一瞬、本気で怯えた。


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下化衆生 (モト彼の告白) 15 

下化衆生 (R-18)

 久しぶりに飲まない? と亨から不意の連絡があったのは、つい先日のことだった。

 あの後、更に散々弄ばれた挙句、週明けにやっと部屋に帰してもらって、また連絡入れるよ、と別れて以来、2週間ほど遼一から連絡はなくて、美久はつかの間、ほっとして自分の時間を過ごしていた。

 振った相手を誘うなんてどういう神経? と美久が突っかかっても、亨は気にしなかった。
 妙に真剣に、いや、ちょっと話があるんだよ、と暫く沈黙する。

 正直、それどころではない事態が続いていて、亨に対する未練も、引っ掛かりもなかった美久は、良いよ、と答える。

 みんな、集まるの? との問いに、何人かは来るだろ、とどうでも良さそうな亨の返答。美久は、何か本当に『話』があるんだな、と感じた。

 いつも皆で集まる時間より一時間も早い時間を指定され、美久は、会社帰り、そのままいつもの居酒屋に直行した。
 いつも、畳のテーブルを囲むメンバー達だったが、今日は亨はカウンター席で美久を待っていた。

「…美久ちゃん、君の方から誘ったんだろ?」
「な、…何が?」

 飲んでいたビールを吹き出しそうになって、美久は亨の顔を凝視する。驚いて言い訳の一切が吹っ飛んでしまった。

 さっきから、何か別のことを考えているような奇妙に冷静な様子で亨は美久を見つめている。なんだか、何もかも分かっているよ、という風にすら見える。

「だって、遼一は、まだしばらく君を自由にしておくんだろうな、って僕は読んでいたからね」

 美久はきょとん、と亨の顔を見つめる。何を言っているのかさっぱり分からない。付き合っていた頃と変わらない仔犬ように丸く優しい目をじっと穴があくほど見つめて、美久は言った。

「…なんのこと?」
「美久ちゃん、今、仕事、楽しいだろ?」
「うん」
「だからさ」

 ますます訳が分からない。何かまったく別の話を同時進行しているんだろうか?

「まだ、仕事辞めたくないだろ?」

 なんか、似たような会話を繰り広げたことがあった気がする、と美久は次第に奇妙な気分になってきた。

「…遼一に聞いたの?」
「何を?」
「俺と遼一と、菜月はさ」

 親友だった菜月の名前が出て、美久はちょっと心臓がずきっとする。大好きな友達だった。まさか、恋人と親友に裏切られるとは思ってもみなかった。それでも、時々、菜月のことが無性に恋しい。

「まあ、あのメンバー、他にも同郷のやつがいるんだけど。ずっと中学・高校と一緒だったんだよね。だから、お互いいろいろ分かっていることがあるんだ」

 美久は虚ろにその言葉を聞いていた。

「遼一は、昔から女の子の好みははっきりしていて、うん、まったくブレなく一貫してるんだよ。そして、自分が気に入った子は、必ず! 名前にちゃん付けなんだ」
「…え?」
「今はもうみんな‘美久ちゃん’と呼んでるから覚えてないだろうけど、最初にそう呼んだのが遼一だったって気付いてた?」

 美久は首をぶんぶん振る。その話の展開に、美久はもうなんだかついていけなくなりかけていた。

「つまり、あいつが君を‘美久ちゃん’と呼んだ時点で、これは俺の女だと公言してるようなものなんだよね」
「…はあ?」

 フザけているのか? と美久は本気で思った。言ってることとやってることが合ってないよ? じゃあ、なんで私に声掛けてきたりしたの?
 初めて亨は美久の顔を見てくすくす笑った。

「美久ちゃん、本当に分かり易すぎだよ。まあ、確かに矛盾してるよね。でも、それくらい長い付き合いだったんだよ、僕たちは」

 まったく意味が分からない、という表情の美久に、亨は笑いながら続けた。

「君さ、けっこう人に騙され易いでしょ。素直だから」
「バカにしてるの?」

 ムッとして美久は言う。

「そうじゃなくて」

 亨は新しいジョッキでビールを一口喉に流す。

「放っておくと、あの頃、君を狙ってる輩がけっこういたんだよ。中には性質の悪いのもいてね。遼一は気が気じゃなかったろう。でも、遼一はあのとき、まだ動けなかったんだ、まあ、いろいろな理由でね。だから、僕がとりあえずナイト役を買って出た。遼一は、俺たちにとっていろんな意味で中心で、保護者役だったり、損な役回りをいつも引き受けてるお人好しなんだよね。だから、せめてそういうことだけでも返してやりたいというのか。…ごめんね。美久ちゃんのことは好きだよ。これは本当。だけど、僕にとっての人生のパートナーは、やっぱり菜月なんだよ。…あいつも、遼一に協力しただけで、君を傷つけるつもりはなかったんだ」

 美久は予想だにしなかった話の展開に言葉を失った。

 ええと…? それってどういうこと? 
 私が遼一と付き合うようになるって、初めから決まってた、みたいな話じゃない? それ。

 だけど、ほんの少し納得する部分。それまでの遼一の、皆の中での役回り。確かに彼は皆で何かするというときに、必ず中心になっていろんな準備をし、手配から予約、ときには下見までして皆が楽しめるセッティングをし、細部に目が行き届く男だった。

「ちょっと僕の実家でいろいろあってさ、正式に菜月と結婚の話が進んでしまって、僕はもう君を守ってやれなくなったんだ。だけど、…菜月がさ、ずっと美久ちゃんを心配してるんだ。…友達に戻って…っていうのは無理でも、一度、あいつに、会ってやってくれないかな」

 ‘結婚’という言葉に、不思議にまったくショックは受けなかった。こうやって離れて冷静に二人を見つめると、そうか、お似合いの二人だと、当然のように素直に感じた。そして、菜月が、自分を思ってくれている、ということに胸がちょっと熱くなった。

「遼一は、最終的にやつに辿り着くまでは誰と付き合って、誰と遊んでようと、あまり気にしないんだよ。用意周到に機会をうかがって、必ず落とす自信があるからね。だけど、一度関係を持ってしまったら、もうすべて終了。他の男なんて見たら絶対ダメだよ。遼一は嫉妬深いとか独占欲が強いとか、そういうレベルじゃない。支配欲、被服従欲? っていうのかな? まあ、嗜虐欲まではいかないっていうギリギリの線だね。基本的に、やつは女の子には優しいし、逆らったりしなければ、これ以上ないくらい大切にしてくれるよ」
「その、怪しい言葉の羅列はなんなの?」

 美久は言葉の持つ意味に一瞬震えが走った。

「それに、どうして、そういうこともっと早く教えてくれなかったのよ」

 もう遅いから! と美久は少し泣きそうになりながら、亨を睨んだ。

「いや。だって、僕と別れて即効で付き合うようになるとは思わなかったんだもの。美久ちゃん、僕と別れて、それで寂しくなって、その勢いで遼一と寝たんだろ」

 あまりにその通りで、二の句がつなげない。

「…まあ、変な男に引っ掛かるより、良かったんじゃない?」

 充分、変な男に引っ掛かってる!

 と美久はため息と共に多少ぬるくなったビールを喉に流し込む。

 あの『婚姻届』。
 まだ提出されていないことは、帰り際、そっと机の引き出しを覗いて確認した。取り出すまではいかなかったが、あの存在は重い。どうしたら良いんだろう?

「女はよく、一番好きな人、二番目に好きな人、みたいなのがあるだろ?」

 ビールのお代わりを追加注文しながら亨は言う。

「男は…っていうと語弊があるかもしれないけど、とにかく遼一にはそういうのはないんだ。ただ一人の女の子と、大事な人々と、その他大勢。地球上にいるすべての人間がその三つのくくりに入るんだよ。もっと分かり易い言葉に直せば、恋人と友達とどうでもいいやつ。友達は老若男女問わず、やつの中ではとっても大事で、だから、何か相談されたり助けを求められたりすると絶対に放っておけない。それこそ、相手が女の子だったら、求められれば一夜を共にしたりもする。だけど、友達のくくりに入ってない相手にはものすごく冷たいけどね。そして、美久ちゃんは、遼一にとっては唯一無二の相手だからね。まあ、覚悟してついていってあげてよ」
「…それって、フォローにも慰めにもなってないんですけど」

 美久は半分青ざめた状態で呟く。

「あのさ、美久ちゃん、遼一は自分が保護・監視している相手は絶対に守るって男なだけで、自分の手の中に在る限り、これ以上ないくらい優しいよ。裏切られることが許せないだけなんだよ」

 だから、それって、フォローになってないよ。
 美久は虚ろな視線を亨に投げる。

「…美久ちゃん、遼一を嫌いじゃないんだろ?」

 亨の言葉に、美久はきょとん、と彼の瞳を見上げた。

 考えたことがなかった。あまりに友人として傍にいたせいで、‘男’と意識したことがなかったにしても。
 そういえば、私は遼一をどう思っているんだろう?
 そもそも、どうしてそれを考えたことがなかったんだろう?

「…別に、嫌いになる要素はないよ」

 少なくとも、友達でいた頃は…。

「だろ? じゃあ、別に良いんじゃない?」

 子どもに向けるような淡い優しい笑顔に、美久はほんの少し落ち着かない気分になった。
 

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下化衆生 (モト彼の告白) 16 

下化衆生 (R-18)

 何人かのいつもの仲間がやって来ると、美久と亨も、皆と一緒にいつものテーブル席に移った。もともといつもの時間で、そのテーブル席は予約していたようだ。
 その日、菜月は出張中ということで現れず、美久はがっかりした。

「…遼一も、来るの?」

 ふと思い出して、美久は亨にこっそりと聞いてみる。

「どうかなあ…。なんか、忙しいらしくて、間に合ったらちょっと顔を出すって言ってたよ」
「…そう」

 ほっとして美久は頷く。



 
 その夜、久しぶりに友達に会って、久しぶりに肩の力を抜いて飲んだせいか、美久はいつもなら飲まない量を軽くオーバーしてしまった。その日は、土曜日で翌日は休日だったせいもあるかもしれない。このメンバーの集まりは、大抵、曜日は問わない。誰かがその気になって連絡が回れば、月曜だろうと日曜だろうと、会が催されるのだ。

「飲みすぎじゃない?」

 呆れたような声に、はっと目を開けると、美久を見下ろしてため息をついていた人物は上着を脱いで、ハンガーに掛けているところだった。

「…こ…ここは?」

 薄暗くて、静かな場所に美久は寝かされていた。

「タクシー呼ぼうと思ったんだけど、もう遅かったし、俺も疲れてたし、途中でホテルをとったよ」

 起き上がろうとして、美久は鋭い頭痛に顔をしかめる。

「いたた…!」
「だから、飲みすぎだって」

 遼一がいた。
 美久は状況が把握できず、そっと辺りを見回す。

「…亨や…みんなは?」
「とっくに帰ったよ」
「…どうして、私はここに?」
「だから、言ったろ?」

 美久の寝ているベッドに腰を下ろして、遼一は苦笑する。

「俺が行ったときには、君はもう酔いつぶれていて、皆そろそろ帰る支度をしていて、仕方がないから俺が連れて帰るよ、と皆を帰したんだよ」
「…もどしそう…」

 頭を動かしたせいか、美久は不意に気分が悪くなった。立ち上がることも出来ない美久を、慌てる様子もなく遼一は軽々と抱いて洗面所へと連れて行った。

「はい、ここで吐いて良いよ」

 もう、限界だった。
 美久は初めて飲みすぎで、しかも男の人の前で思い切りげえげえ吐いた。
 ほぼ液体しか出てこない嘔吐物を見て、遼一は呆れる。

「バカだね、美久ちゃん。ほとんど何も食べずに飲んでたの? 胃壁を傷つけるよ」
「…気持ち、悪い…」
「全部、出してしまいな」

 背中をさすってくれる大きな手。出すだけ出して、幾分、気分がすっきりすると、美久はふらふらとその場に座り込む。

「困った子だね」

 遼一はスポーツドリンクのペットボトルを持ってきて、ほら、と美久に差し出す。異様とでもいうような喉の渇きに、美久はむさぼるようにそれを一気に飲み干した。

「服をゆるめて、もう、寝なさい」

 再びベッドまで美久を抱えてきた遼一は、美久のスーツの上着とスカートを脱がせる。

「…や…イヤ…!」

 抵抗する美久に、遼一はため息をつく。

「このまま着て寝たら、スーツがダメになるだろ。こんな泥酔状態の女なんて抱かないよ」

 頭はずきずき痛み、気分は最悪で、美久はもうどんな嫌味を言われようが、ただ眠りたかった。遼一は、美久のブラウスの胸元のボタンを緩め、ストッキングを脱がせた。もう、されるがままほとんど眠りに落ちそうな美久に遼一は苦笑する。

「どうして君はこんなに隙だらけなんだろうね」

 しかし、美久にはもう、その言葉は届いていなかった。


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下化衆生 (二日酔いの朝に) 17 

下化衆生 (R-18)

 翌朝、チェックアウトをぎりぎり引き伸ばしてもらって、なんとか部屋を出たが、美久はめいっぱいの二日酔いに何もかもがうっとうしく、何も考えられなかった。

 光が眩しく、雑踏は耳鳴りがするようにうるさい。

 タクシーは使ったものの、遼一に支えられながら自分の足で歩いたのに、美久は着いた先がどこなのか把握していなかった。

「…あれ? ここは…?」
「俺の部屋だよ。だから、良いのか? って聞いただろ?」

 そういえば、何か聞かれたような…
 マトモな思考が廻っていないのに、判断しろなんて度台無理な話だった。

「とにかく、頭がマトモになるまで、寝てて良いよ」

 何気にヒドイ言われようだったのに、美久は気にする余裕もなく、ただ、頷いて遼一のベッドに倒れこんだ。

 浅い眠りを繰り返し、目覚める度に気分の悪さは薄らいでいった。そして、目覚める度に、遼一がパソコンに向かって仕事している姿が見えた。いつもの遼一。仕事をする男の人の背中。

 なんだか、妙に安心して美久は再び眠りに落ちる。
 午後になって、やっとはっきり目を覚ましたとき、起き上がって見回すと、遼一の姿はなかった。

「…出かけたのかな?」
 
 呟いて美久は立ち上がる。喉が渇いていて、恐る恐るキッチンの冷蔵庫を開ける。そこにはスポーツドリンクが何本か並んで入っていて、あとで買って返せば良いかな…と美久はそっと手を伸ばす。
 そのとき、不意に玄関のドアが開いて、遼一が入って来た。

「ああ、おはよう、美久ちゃん。やっと目覚めた?」

 美久は驚いて、慌てて冷蔵庫の扉を閉める。

「勝手に飲んで良いよ。喉、渇いてるんだろ?」

 美久の慌てぶりに、靴を脱ぎながら遼一は笑う。手にはいくつかの買い物袋。

「…買い物、行ってきたの?」
「そうだよ、それ、飲んだら着替えた方良いよ」

 恐る恐る手にしたペットボトルを、再び一気に飲み干しそうな様子の美久を見つめながら遼一は袋から食料品を出してテーブルに並べる。

 その様子を見て何か言いたそうな美久の表情に、遼一は微笑んだ。

「別に帰さないって言ってるわけじゃないよ。夕飯食べてから戻っても大丈夫だろう?」

 その声が静かで、目が普通に優しくて、美久はどきりとする。

「あ…、シャワー借りて、良い?」

 自分でもよく分からなくて、慌てて美久は言う。

「良いよ」

 美久がゆっくりシャワーを浴びているうちに、遼一は少し早い夕飯の支度を整えていた。美久は昨夜からほとんど何も食べていなくて、酔いが抜けた途端、無性にお腹が空いてきた。

 いつの間に用意していたのか、部屋着用のゆったりした綿のワンピースが脱衣所に準備されてあり、美久はとりあえず、それを身につけてきた。サイズはあってないような造りと素材ではあったが身に付けて違和感はなかった。

 綺麗な彩りの野菜サラダがオーブンで焼かれた上質の肉に添えられていて、ドレッシングが数種類用意されてある。それから根菜の味噌汁。炊き立ての白いご飯。

 普段、一人分だとほとんど外食や惣菜ものだった美久は、遼一の手料理の見事さに感動すら覚えた。

「どうぞ」
「…ありがとう」
「ワイン、少し飲む?」

 鮮やかな紅いワインを出してきた遼一は、二つのグラスを用意して聞く。

「…今日は、もう…」

 さすがに美久はちょっと顔をしかめた。

「まあ、さすがに懲りたようだね」
「…ごめんなさい」

 昨夜の醜態を思い出して美久は赤くなる。
 あんな風に介抱してくれる男の人って珍しいんじゃないかと思う。

「たまには良いけど、自分の限界は知っておいた方が良いよ」
「…はい」
「まあ、でも、そんな飲み方出来るのも今のうちだけだろうからね。子どもが出来たらしばらくお酒なんて飲めなくなるし」

 さらりと恐ろしいことを言われ、美久はそのまま固まった。
 そういえば、そろそろ生理が始まってもおかしくない頃なのに。一日二日の変動はあるが、なんだか無性に不安になってきた。

「どうしたの? もっと食べて?」

 味噌汁を飲みながら、遼一は美久の青ざめた表情をじっと見つめる。
 彼女の不安の原因なんてお見通しなのに、遼一は素知らぬ振りだ。

「遼一…、本当に、子ども、欲しい…の?」
「美久ちゃんが生んでくれたら嬉しいよ」

 にこっと彼は答える。

 その表情が作ったものだとは言わないし、巧妙にウソを吐いているとは思わない。だけど、どこか違和感が消えない。だって、今まで遼一はそんな話題に触れたことなどなかった。美久が知る限り、遼一が誰かと真剣に付き合ったことがないから、その相手とそういうことを夢見たり話し合ったりしたこともないだろう。

 亨の話に寄れば、中高校生の頃には彼女がいたらしい。どうして別れたのかは彼も知らないようだったが。
 しかし、そんな若い内に男が子どもが欲しいなんて普通は真剣に考えないだろうから、これは、今だから、相手が美久だから言ってることなんだろうか。

「あ、あの…」

 思い切って美久は言ってみる。

「私、その、まだ遼一のことがよく分からなくて、それに、…結婚なんてまだ考えたことなくて、子どもを生むってこともピンとこなくて…」

 何が言いたいのか、要領の得ない話に、美久自身、混乱していた。

「えっと、…だから…」
「だから?」

 その声の低さに驚いて、美久ははっと遼一に視線を移す。しかし、声の不穏さとは裏腹に、彼はごく普通の表情をしていた。ただ、いかにも聞く体勢に入っているように箸を置いてじっとこちらを見つめている。
 その真っ直ぐな視線にひるんで、美久は思わず俯いて言葉を紡ぐ。

「そ…その、少し時間が欲しいの」
「ダメだよ」

 間髪入れずに否定されて、美久はぽかんと相手の顔を見た。

「え?」
「大学時代から今まで、どれだけ時間があったのさ。猶予は充分与えたよ?」
「そ…っ、そんな。だって、違うじゃない。私は今まで遼一と付き合っていた訳じゃないし…」
「付き合って分かる部分はこれから知れば良いだろ?」
「そうだけど…、え、と、そうじゃなくて…」
「何か問題あるの?」
「…だって、」

 美久は不意に涙が浮かびそうになった。

「だって、遼一…、優しかったのに…」
「俺は充分、君には優しくしてるつもりだけど?」

 美久は激しく首を振る。

「優しくないよっ」
「じゃあ、どうして欲しいのさ?」

 声を荒げた訳じゃなかったのに、美久はその言葉にびくりと反応した。

「わ…分かんないよ、そんなこと…」
「じゃ、ハナシはお仕舞いだね」
「…え」
「俺を納得させて軌道修正させられないなら、俺は俺の決めた通りに進むってだけだよ」

 ぞっとした。その笑みに。
 遼一がこんな笑い方をすることを美久はずっと知らなかった。瞳に怒りの炎が燃え盛ったまま、相手を焼き尽くそうとするほど熱い炎なのに、その表情はこれ以上ない甘い笑みを浮かべている。

「俺に逆らわないでね、美久ちゃん」

 思わず、頷いてしまうような柔らかい声色で彼は言った。

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下化衆生 (二日酔いの朝に) 18 

下化衆生 (R-18)

 約束通り、その夜、遼一は美久をアパートまでタクシーで送って、扉の前で「ありがとう」と言いかけた彼女を部屋の中に押し込み、そのまま扉を閉めた。

「な…っ? ちょ、ちょっと、遼一っ」

 驚いたのと同時に身の危険を感じて抗議の声をあげようとしたときには、既に彼の腕に抱きすくめられて唇をふさがれていた。

「ん~っ、んんっ」

 遼一の腕を引き剥がそうともがく美久の手を後ろに押さえ込み、遼一は彼女の身体を壁に押し付けた。

「やだっ、りょ…いちっ」
「騒ぐと外に聞こえるよ?」

 はっとして口を閉じた美久は、自由な方の手で、首筋に唇を押し当てる遼一の髪を引っ張る。

「や…っ」
「ふうん、そんなことすると―」

 髪を掴まれて不快だったようだ。遼一は美久の両手首をきつく押さえ込んで彼女の後ろに回した。そして、胸元を開いて舌を這わせて白い肌に赤い花を散らす。

「…っ、や…っ、やめ…」

 ブラウスのボタンを半分まで外し、胸元を執拗に責める。必死に腕を振りほどこうともがいている内に、片手が何とか抜け、美久は再度、遼一の髪を掴んだ。

「や…めて…っ」

 ようやく、遼一は顔をあげて美久の顔を見つめた。その、何を考えているか分からない表情に、美久はぎくりとして言葉をなくす。思わず手を放して、間近で彼女を見下ろす遼一の目に見入ってしまった。
 遼一はやがてにやりと笑い、手を放した。

「じゃ、また連絡入れるよ」
「…うん」

 それで、美久も思わず頷いていた。
 扉に向き直り、ドアを開ける前に振り向き、遼一はふと思い出したように言った。

「ああ、そろそろこっちは引き払う仕度しておいてね」
「…えっ?」
「まぁ、そうだね。12月くらいには―」
「待ってっ」

 慌てて遮る美久に、ふっと笑みを見せて遼一は言い渡す。

「俺は決めたことを進める。言ったろ? スケジュールは決定済みだよ。ここ、どういう契約? 更新はいつなの?」
「…待って、遼一」
「いつ?」

 目を細めて見据えられ、美久は言葉を失って立ちすくむ。

「さ…三月」
「そうか。…まぁ、そうだね。じゃ、良いよ、その更新のときで」
「遼一…」
「おやすみ」

 不意にその頭を抱き寄せて額に口付け、遼一は去っていった。

 その後ろ姿を茫然と見送って、美久はどこか放心状態に近かった。何も生産的な思考が巡らず、ダメだ、このままじゃ、と自分を叱咤する。何か遼一を納得させ得るものを提示しないと。どうしたいのか、まずは自分の心を探らないと。

 怯えにも似た思いで、美久は立ち尽くし、どくどくと波打つ心臓の鼓動を聞いていた。



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下化衆生 (昏いもの、昏い闇) 19 

下化衆生 (R-18)

「おはよう。今井さん」

 翌朝、会社の前で声を掛けられ、振り返ると、ほんの一時期美久が想いを寄せた、今回の仕事仲間の影沼久志がにこにこと歩み寄ってきた。

「あ、おはようございます」

 美久は微笑んで挨拶を返す。

 そういえば、もうすっかり存在を忘れていた。…っていうか、この間のあれはこいつが元凶だったんだ、と勝手なことを思いながら、美久はもう彼のことは頭から消え去る。遼一とどうやって対決出来るのか、ずっと頭を悩ましていたのだ。

「…なんだか、この頃、体調悪そうじゃない?大丈夫?」

 心配そうに彼は言い、美久は、あ、まだいたんだ、と慌てて微笑んでみせる。
 しかも、その理由を知ったら引くだろうなあ、と思いながら。

「そういえば、この間の資料のことだけど…」

 久志がすぐに仕事の話題に切り替えてくれたので、美久も、すっと思考が切り替わった。その後は二人でいろいろと話し合いながらそれぞれの部署へと向かった。

 美久は、もう彼のことは仕事のパートナーとしか見えなくなっていたし、当時の想い自体がすでに‘幻想’に過ぎないことを自分で分かってもいた。

 それまでと同じ。自分に対して好意を抱いてくれる人だから見つめていたに過ぎなかったのだろう。もしかして、美久は自分から本当に誰かを好きになったことがないかも知れない。いつも始まりは相手の視線に気付くから、だった。

 亨と別れて、遼一に甘えて慰めてもらって…の後に、こんな事態に陥ることになろうとは予想だにしていなかったし、もうこの急激な展開についていけなくなりかけていた。これ以上悩みのタネを増やしたくなくて、美久はここ半月くらいは、もう久志との会話もすっかり事務的なものになっていたのだ。

 美久はもともと、たくさんのことを一度に出来る子ではなかった。もう彼の存在は、仕事の一環としてしか捉えられなくなっていたのだ。

 しかし、久志の方は違った。
 ある頃から突然、美久の自分を見る目が変わったことを感じずにはいられない。それまで、自分に対して微笑む彼女はぱあっと花が咲いたような輝きがあった。紹介された初めから、彼は美久に好意を抱いていた。純真そうでお嬢さまっぽいのに、仕事ではまったく‘女’を感じさせない。仕事に対して、腰かけ程度ではない、相応の覚悟のような熱意が見えてたのもしかった。それでいて、プライベートではやはり奥ゆかしく服装も清楚で、男の征服欲を刺激するタイプなのだ。

 いつか、自分のものにしたいと思わせる女性だった。そして、美久が自分に対して好意を抱いている様子が分かっていて、彼はまんざらでもなかったのだ。

 それが。今月の中ごろから、彼女は変わってしまった。仕事に対する態度は変わらないのに、もう、自分に対する興味を失ったらしいことが手に取るように分かる。それに著しい不満と焦りを抱いていた。

「今井さん、今夜、一緒にどう?」

 その日の帰り、久志は、そそくさと定時で帰り支度を始めた美久に、飲みに行かないか?と声を掛ける。

「…ごめんなさい。悪いけど、疲れてて…。早く帰って休みたいの」

 疲れてなくても、もう誘いは絶対に受けられないことは、どうしてか言い出せず、美久は曖昧に濁す。

「そうか…。残念。なんか、この頃、変じゃない?ちょっと気になってさ」
「そんなことはないけど」

 美久はさっさと支度を整え、じゃ、お先に…と歩き出す。

「待って、今井さん。」

 あまりに素っ気ない美久の態度に、慌てて久は彼女を追いかけ、美久の腕をつかむ。その拍子に美久のブラウスの袖が引っ張られ、胸元が少しはだけて見えた。

「今井さん、それ」
「え?」

 久志はショックを受けて美久を茫然と見つめる。

「キス・マーク?」

 はっとして美久は真っ赤になって胸を押さえる。
 くうう! 遼一め!

 赤くなってうつむいた美久を、久志はしばし茫然と見つめ、次第に裏切られたような歪んだ怒りが湧き起こってきた。

「今井さん、彼氏とは別れたって言ってなかった?」

 確かに、亨と別れた直後にそんな話をしたかもしれない。
 だけど、そのあとすぐにこういうことになったのよ!
 と、美久はなんだか理不尽な思いに苛まれていた。

「君って、そういう女だったの?」

 は? と美久はやっと顔を上げて久志を見た。なんだろう? そのあからさまな侮蔑的な視線に理不尽な怒りが湧き起こった。

「私が誰と付き合おうと関係ないと思いますけど」

 かなりムッとした声色で美久は思わず言ってしまった。
 別れた彼、亨と遼一との関係。彼らを含めた大学時代からの友人達との交友。そして、美久と遼一の関係。それは一言で説明できるものでもなかったし、別に分かって欲しいものでもなかった。

「誰でも良いの?」

 良いわけない! そういう問題じゃないの!

 美久はイライラして、放っておいてよ、という表情で久を見上げる。
 何も答えない美久を軽蔑したように見下ろし、久志は、じゃ、と言って戻っていった。

 ちょっとの間、唖然と久志の後ろ姿を見ていた美久は、すぐに「まあ、どうでも良いや」と呟き、慌てて帰宅の途に就いた。

 まさか、久志が、‘そんなこと’を考えていたとは知らずに。
 

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下化衆生 (昏いもの、昏い闇) 20 

下化衆生 (R-18)

 それから10日ほど経った頃、美久は遼一の部屋へ続く途上の商店街に寄って、ちょっとした買い物をしていた。駅から自宅アパートまでの道に、そのとき必要なものが売っている店がなくて、美久はちょっと寄り道をしていたのだ。

 しばらく、遼一も亨も、そして美久自身もそこそこ忙しくて、誰とも会わない時間が続いていた。
 目的の品を手に入れて、さあ、帰ろうかというとき。

 たまたま久志が同じ道を歩いていた。彼の家もその方向だったのだろう。

 美久の目には彼の姿は映っていなかったので、彼女はまったく気付かない。反対方向の駅へ向かうのに、表通りよりも裏を通った方が幾分近かったので、美久は途中で路地裏を通って近道をした。

 そして、その後をつけてきた男がいた。
 久志だった。

 晩秋の夕暮れは早い。もう、裏通りは薄暗く、街灯のない道では人の判別も難しいくらいだった。

 人気の少なくなった辺りで、不意に美久はすぐ背後に人の気配を感じた。なんだか、とてもイヤな感じがして振り返ろうとした途端、美久は突然、強い力で背後から掴まれ何か布のようなもので口をふさがれた。そして、建物と建物の間の暗がりに引きずりこまれて引き倒された。

 驚いて悲鳴を上げようとしたが、口の中に押し込まれた布で声がくぐもり、更に相手は美久のみぞおちの辺りをこぶしで殴ったのだ。一瞬、息が止まりそうなほど苦しくなり、気を失わないまでも意識が少し朦朧とした。

 ぐったりした美久を、その男…、暗くて顔は見えなかったが、美久はどこかで会ったことがある、とぼんやり感じていた、その男は、美久の両手を紐のようなもので縛り、いきなり服を引き裂いた。

 男の汗ばんだ手が美久の胸に触れ、美久はぞっと鳥肌が立った。気持ちが悪い!
 男の息遣いが肌にまとわりつき、美久は、恐怖というより、嫌悪感と怒りでいっぱいになった。

 こんな男に…!
 目には涙がにじんできたが、相手の顔をじっと見据えて睨みつけた。次第に目が慣れて、顔がぼんやり見えてくる。

 そんなっ、こんなことをするなんて…
 失望と恐怖と屈辱。

 卑怯者!

 久志の手が美久の下着の中をまさぐってくる。動こうとすると、先ほどなぐられたみぞおちが痛む。どんなに暴れても、さすがにしっかり組み伏せられていて、逃げることは出来ない。

「ほら、やっぱりこんなに濡れてくるじゃないか。誰でも良いんだな、君は。」

 うっとりしたような気味悪い声色にぞっと背筋が寒くなる。
 イヤ! イヤだ! こんなやつに…っ!
 助けて! 遼一!

「そんなに暴れるなよ。今すぐもっと気持ち良くしてやるよ。どうせ、いつも散々淫らなことをしてるんだろ? 可愛い顔してさ。」

 激しい怒りで美久は蒼白になった。

 こんな男だったのか!
 仕事に傾ける情熱なんて見せ掛けで、中身はくだらない! 女を性欲の対象としか考えていないのか?

 久志の手は乱暴に美久を犯し、痛みで涙が出てきそうに不快だった。喉を押さえつけられ、息も苦しい。気を失いそうに脳への酸素が足りない。

 地面に直接触れる背中が痛み、それでもとにかく美久は必死で抵抗する。自由にならない両手を精一杯振り回し、不意に手に触れた砂をつかんで、男の顔に投げつけた。

「うわっ…!」

 と久志の声。
 彼は、砂が目に入って、宙に舞う埃にむせた。同時に美久の顔にもぱらぱらと砂粒が降ってくる。

 男はカッとして、美久の頬を殴った。その拍子に美久の口に押し込まれていた布がずれて吐き出される。殴られた痛みを感じたのと同時に、自由になった口は声の限りの悲鳴を上げた。

 裏通りとはいっても、まったく人が通らないわけではない。
 久志は慌てて美久を放り出して逃げ去った。
 通行人が美久の悲鳴に気がついて駆けつけてくれ、美久は間一髪のところで救出されたのだ。


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下化衆生 (昏いもの、昏い闇) 21 

下化衆生 (R-18)

 警察署に保護された美久は、犯人の心当たりを聞かれたが、答えなかった。特徴を聞かれ、当たり障りのないことを答えたのみだった。口にすることすら、イヤだったのだ。
 服を裂かれていた美久は、一人で帰ることが出来ず、「誰か迎えに来てくれる人は?」と聞かれ、遼一の番号を伝える。

 他に、誰も浮かばなかった。
 菜月は、確か今週いっぱい、出張だと言っていた。結婚を控えた亨に連絡するわけにはいかない。しかも、亨に頼ったことを知られたりしたら…。

 連絡を受けた遼一が、ひどく怒るだろうことを美久は容易に想像できる。犯人の男に対してではない。むしろ、そういう隙を与えた美久自身に、だ。

 何故、そんな風に思うのか。
 それまでに散々感じた彼の冷徹ともとれる眼差しと、命令的な口調。他の男に許すことを‘裏切り’と受け取るだろうことは明白だった。たとえ、それが美久の意思に反しての状況であろうと。

 それでも。
 両親にこんなことで心配を掛けることは憚られたし、知られないようにするには、他にどうしようもなかったことも事実だった。




「美久ちゃん。」

 不意に遼一の声がして、青い顔をして彼が現れた。

 その瞳の中にどんな感情が潜んでいるのか、そのとき、美久には推し量ることは出来なかった。彼女自身、ショックを受けて混乱していたし、早く安心出来る場所に戻りたかった。

 遼一の心の内がどんなでも、今はほかにすがる胸はなかったのだ。無言で近寄ってきた遼一は、自分の着てきたコートを着せ掛けて、震えたままだった美久の身体をぎゅっと抱きしめてくれた。それだけで、美久はなんだか泣きそうになった。

 それまでの長い間の、友人としての信頼が根底にあるからなのだろうか?
 ともかく、安堵の息を吐いた。そして、実はものすごく怖かったのだと知った。

 彼、という人物への評価に、それにマイナス要因をプラスされたとしてもそれほど揺るがない何かが美久の中にはあるのかもしれない。
 

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下化衆生 (昏いもの、昏い闇) 22 

下化衆生 (R-18)

 遼一のコートに包まれ、美久は彼にぴったりと付き添ってもらって、そのまま遼一の部屋へ向かう。タクシーでアパートの前まで乗りつけ、二階の彼の部屋への階段を上がった。

 その間、遼一は何も言わなかった。

 その時点で、美久は、彼が相当怒っていることを感じていた。美久を抱くその腕は温かかったが、触れ合ったその手から冷気が押し寄せてくるような、そんな気がするほど、彼は静かだった。

 美久を先に部屋の中へ入れ、後ろ手でドアを閉めた遼一は、ちょっと息をついた。
 靴を脱ぎかけていた美久は、その気配にぎくりと動きを止めた。それでも、怖くて振り返ることも出来ない。

「説明してもらおうか? 美久ちゃん。」

 静かだったが、氷のように冷ややかな声だった。
 せ…説明?

「あ…あの、りょ…」

 立ち尽くしたまま、美久は身動きも出来ずに恐怖に震えていた。

「こっちを向けよ、美久ちゃん」

 ゆっくりと振り向くと、思ったより遼一の目は静かだった。いや、薄闇の中、瞳だけが光を放っている。その光を見ていたら、突然、思い出したことがあった。皆で花火大会をした夏の夜のことを。

 ロウソクの火だけで、あとは花火の明かりではしゃぎまわった真夏の夜中。あれは、どこの河川敷だっただろうか? 他にもバーベキューをして、そのまま花火大会にもつれ込んだ団体がいて、10人に満たなかった遼一や美久のグループに比べて、数十人の団体は仕掛け花火など大掛かりな打ち上げものを派手に上げていた。

 落下傘が落ちてくる花火を打ち上げた向こうのグループが、落ちた傘を探しに、川の水辺にいた美久の傍へやってきた。男ばかり数人だった。しゃがんで線香花火をこっそり楽しんでいた美久は、背後に近づく人の気配に、てっきり菜月でもやって来たのかと喜んで顔をあげた。

 しかし、そこに立っていたのは、見知らぬ若い男が数名。美久は咄嗟に言葉を失って、立ち尽くした。

「どうして君、一人でこんなところに?」
「どうせなら、一緒に遊ばない?」

 周囲を囲まれて口々にそう声を掛けられて、美久は戸惑った。下心があるようには感じられなかったが、一人で勝手な行動をする訳にはいかなかったし、実は彼らの存在は知っていたが、興味もなかった。

「いえ、あの、私は…」
「皆を誘っても良いから、ちょっと合流してみないかい?」

 他意のなさそうな笑顔で男たちは彼女の背後に回った。月がぼんやり灯る程度のかなり暗い闇の中、相手の表情もはっきりは分からない。それほど身の危険を感じた訳ではなかったが、やはり美久は怖かった。

「ここを真っ直ぐ戻ればすぐなんだ」

 腕を引っ張られ、美久は思わず叫んだ。

「イヤっ…遼一っ」

 何故、そのとき亨を呼ばなかったのか、今でも不思議だ。咄嗟に口をついて出たのが遼一の名前だったのだ。しかし、その不可思議さに気付く者は誰もいなくて、ただ美久の悲鳴に誰もが反応して駆け寄ってきた。

 そして、やはり一番先に駆けつけたのが遼一だった。

 美久が声をあげたことで、誘っていた男たちも驚いたようで、それ以上何もしなかったし、もちろん、ただ一緒に遊ぼうと誘ったに過ぎなかったので、現れた遼一と争いになることもなかった。ただ、闇の中から颯爽と現れた彼を見たとき、その月明かりを宿したような彼の瞳に出会ったとき、美久は心から安堵したことを思い出したのだ。

 あのとき、遼一の姿は闇の中でぼうっと白い光をまとって見えるようだった。


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下化衆生 (昏いもの、昏い闇) 23 

下化衆生 (R-18)

「どういうことさ? 誰に襲われたんだって?」

 遼一の静かな声に、美久ははっと現実に引き戻された。

「あ、あの…分からないんだけど、その…裏道に入ったときにつけられてたみたいで…」

 心臓の鼓動が聞こえるのではないかと、美久は思わず両手を胸の前で握り締めた。そして、じっと見つめられることに耐えられなくなって美久は身を縮めて俯いた。

「…本当に?」

 遼一の声は怒気を含んでいた。ぞくりと背中が粟立つ。相手の目を見たら嘘をつき続けられないことを美久は分かっている。そして、遼一もそれを知っている。

「それが、誰か、分かってるんじゃないの? 庇ってるんじゃないの? そいつを」
「ち…ちが…」
「美久ちゃん」

 遼一はため息をついた。

「君がそういう言い方をするとき、って大抵嘘を吐いてるときだよね」

 ぎくりと身体が強張った。

「そうだよね?」
「ち…」
「庇うような間柄の男? それとも、美久ちゃん、もしかして君から誘ったりしてないよね?」

 ぎょっとして美久は顔をあげた。

「そんなこと、ない。そんなことっ…庇ってなんか…」
「庇ってなんか、か。」

 美久の表情は強張った。

「知ってるやつだったけど、庇ってない? それって、どう解釈したら良いんだろうね?」
「…ち…違う…りょ…いち、違う…」

 すうっと遼一は美久に詰め寄った。とん、と背に壁を感じて美久は後がないことを知る。美久の顔の横に両腕をつき、遼一は上を向けよ、と顎で示す。

 声もなく、青ざめたまま美久は彼を見上げた。
 予想はしていた。が、乱暴に口をふさがれ、舌をねじ込まれ、美久は思わず彼の腕にしがみついた。

「んん…っ」

 あまりに深いキスに、くらりと頭の芯が痺れ、足の力が抜ける。崩れそうな美久の背に腕をまわして支え、遼一はそこに乗じて逃げようとする美久を許さなかった。

 唇の端からつうっと熱い液が流れ落ち、顎を伝っていく。必死に彼の腕にしがみついていないと、もう倒れそうだった。

 やっと美久を解放して、遼一は静かに聞いた。

「どこまで、何をされたの?」

 美久は小さく首を振る。

「言えよ、美久ちゃん」

 冷たい声だった。その目を見上げることは、怖くて出来ず、美久は俯いたまま震える声で言った。

「…さ…触られた、だけ」
「どこを?」
「…あの、…ごめんなさい…っ」

 そのままどこまでも問い詰められるかと思ったのに、遼一は大きなため息を一つついて、意外にあっさりと引いた。

「そう。…なら良いよ」

 遼一は玄関の明かりを点けて、靴を脱いだ。そして、早くあがりな、と美久を中へ促した。
 茫然としたまま美久も後に続き、遼一の背中を恐る恐る見つめる。彼はもうごく普通に部屋に明かりを点け、お湯を沸かし始めている。

 何故、言えなかったのか。何故咄嗟に嘘を吐いてしまったのか。美久はそこにつっ立ったまま、怯えながら考える。そうだ、遼一は居酒屋で美久と一緒だった久志を知っているのだ。それがまず言い出しにくかった理由だ。ごく日常的に一緒にいる相手だったなんて、とても言えやしなかった。しかも、美久が一時期、彼に憧れを抱いていたことを遼一は分かっているのだ。

‘もしかして君から誘ったりしてないよね?’

 それは、半ば、本気で聞いた言葉に違いなかった。
 それから。
 美久は、悔しかった。

 ほんの一時期とはいえ、あんな男に憧れを抱いたことが。どうして、どこまで男を見る目が腐っていたんだろう? どこに惹かれる要素なんてあった? そして。あんなやつに触られたことを、一刻も早く忘れたくて、なかったことにしたくて。思い出すだけでおぞましかった。

 男の暴力を初めてその身に感じて、身体が非力な女でしかないことのカナシサを思い知らされたのだ。
 久志にどういう烙印を押されようと構わなかったが、明日、会社であることない事言いふらされそうな気がして、美久は泣きたくなる。

 まだ、今の仕事は片付いていない。
 まだ、久志との共同企画は終わってはいなかった。

「服、着替え…どうしようかね」
「あ…」

 裂かれたブラウス、汚れたスカート、ぼろぼろの美久を眺めて遼一は困ったように考え込んだ。

「買ってきて欲しい?」

 美久は驚いて彼を見上げ、その瞳に何も見出せずに、怯えたまま祈るような思いで頷いた。

「ご…ごめんなさい」
「分かった。シャワーでも浴びて待ってて」

 遼一は財布を手に、また出かけて行った。淡々としてはいたが、遼一の声はいつもより静かで、決して彼が平常心ではないことが美久には分かった。

 それでも、彼はそういう最低限の優しさを行使出来る程度に平静だったのだろう。遼一は、そういう男だと、美久は思った。もっとも、彼にこんな激情があり、凍りつくような冷酷な面を抱いていることすら知らなかったのだが。

 脱衣所で服を脱ぎながら、身体のあちこちに思ったより多くの傷を見つけて、美久はぞっとした。気付かなかったが、腕に血もにじんでいた。

 熱いシャワーを浴びながら、美久は何故か涙が溢れそうになっていた。悔しかったからでもなく、怒りでもなく、まして遼一が予想に反して優しさを見せてくれたからでもない。分からないのに、涙はじわりと滲んで更に喉の奥に熱がこもった。


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下化衆生 (昏いもの、昏い闇) 24 

下化衆生 (R-18)

 シャワーを浴び終わっても遼一は戻ってこなかった。タクシーを捕まえればすぐだったが、商店街まではけっこう距離があったし、女物の服を選ぶのに迷っているのだろうか?

 バスタオルを巻いたまま、美久は遼一のベッドの上に丸くなった。この間貸してもらった部屋着はどこにしまってあるのか分からないし、勝手にクローゼットをあさるのも気が引けた。

 壁にもたれかかってうとうとしている内に、本気で眠くなってきた。
 どうしたんだろう? 心配になって時計を見上げてみる。6時に会社を出て、恐らくなんだかんだで遼一が迎えに来てくれたのは8時近かっただろうか。そして、もう9時になろうとしている。お腹…空いたような気がする。
 ひどく疲れていた。

 事件に巻き込まれるってこういうことか、と美久はブルッと寒気を感じて横になった。もう空気は大分冷たい。そして、奇妙な疲れが身体の奥に潜んでいる。

 とろりと瞼が重くなった気がした。
 そして、ふっと気がつくと遼一が目の前にいた。

「眠ってたの?」

 身体を揺すられて、はっとして身体を起こす。

「え? あれっ? …遼一?」
「遅くなってごめん、買ってきたよ。まぁ、でも使うのは明日の朝だけどね」

 この間の部屋着と紙袋を示されて、美久は、慌ててお礼を言った。この際、デザインや色やサイズなんて多少どうでも良い。それでも、渡された袋の中身をチラッと覗いてみる。淡い桃色のワンピースにサーモンオレンジのブレザー、洒落た柄のスカーフまでついていた。そして、下着一式。

「え…? あの、下着のサイズとか…分かったの?」
「いつもこの辺に脱ぎ散らかして寝てるんだから、見れば分かるだろ?」

 涼しい顔で遼一は笑う。
 ぬ…脱ぎ散らかして…って、だって、遼一が脱がせてるんじゃないっ

「それと、今日は作る暇なかったから、適当に買ってきたよ」

 スーパーの袋を見せて、遼一はキッチンへ向かい、美久ははっとする。

「あ、ご…ごめんなさい。私が何か作って待ってるべき…だった、んだよね?」
「良いよ、君、あんまり料理しないだろ?」
「…う…うん」

 赤くなって美久は頷く。食事はほとんど市販のもので済ませることが多かった。一人分だけを作るっていうのが無駄な気がして苦手なのだ。
 

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下化衆生 (昏いもの、昏い闇) 25 

下化衆生 (R-18)

 その夜、遼一の様子がどこかおかしいような気がして、美久は不安になった。
 セックスする訳でもなく、遼一はただただ美久を必死に抱きしめているのだ。

「…遼一…?」

 話しかけても遼一は答えない。まるで何かに奪われるのを恐れるように、ただ、彼女の身体を腕の中に収めていた。宝物を守るように。

 抱かれた胸から彼の不安のようなものが伝わってきて、美久も怯えた。
 何を、何からそんなに守ろうとしているんだろう?
 分からないのに、なんだか、切なくて苦しくて、美久も泣きたいような気持ちになった。

「り…遼一、私、大丈夫だよ? あの…怒ってない、の?」

 思わず、美久は余計なことを聞いてしまい、そして、言ってからはっとする。
 腕の中の美久の震えのようなものを感じて、遼一はやっとくすりと笑った。

「怒ってるよ、もちろん」
「あ、…そ、そうだよ、ね…」
「鎖で繋いでここに閉じ込めて、もう誰の目にも触れさせないようにしたいよ。…そうしても良い?」
「え…っ、う、…それは…」

 遼一は、腕の中の美久の顔を覗き込み、くいとその頤を捕える。そのまま口をふさいで背中を抱き寄せ、頤を捕えていた手はすうっと頬を包む。美久は意図せずに腕をあげて遼一の背中をそっと抱きしめた。ものすごく、彼が小さな子どものように感じられた。それまであった支配者然とした空気がしぼんでしまったように、遼一の心が幼い子どもが母にすがるような心細さを宿しているように思えたのだ。

「この頬…殴られたんだね。」

 美久の少し赤くなった頬を柔らかく撫でて、遼一はきゅっと唇を噛み締めた、気がした。思わず美久は身を竦めたが、彼の空気は‘怒り’ではなかった。いや、その色を明確に含んではいたのに、まるで泣きそうに思えたのだ。

 そのまま、不意に遼一は美久の胸に顔をうずめて、動かなくなった。

「遼…一?」

 小さな子どもが抱きつくように両腕で背中を抱いて、何かを必死に耐えているかのように思えた。なんだか胸が痛んで美久はその頭をそっと抱く。

 どのくらい時間が経過したのか分からない。突然、それと分かるくらい空気の色が変わった。いや、気のせいではない。それはまるで映像が切り替わるくらいはっきりとした変化だったのだ。

 不意に顔をあげた彼の目は、いつもの触れれば切れそうな鋭く冷たいものを宿して美久を見下ろした。

「本当にこのまま縛っておこうかな。」
「…え、え?」
「ねぇ、美久ちゃん? その方が俺は安心するし、もう君も他の男に目移りしない分安全だろ?」
「安全って…」
「俺に、殺されたい? その方が、いっそ良いかもね」

 柔らかい笑みを浮かべたまま遼一は美久の顔の脇に両肘をついて、舐めるような口づけをする。

「や…っ、待ってっ、ん、んんっ」

 慌ててもがいて彼の肩を押し上げてもびくともせず、足をばたつかせても圧し掛かられている下半身はほとんど動けない。そして、今もがいて抵抗すればするほど煽っていることになると、どこかで冷静な声が響いてはいた。
 不意に唇を離して遼一はまるで子どもが不思議を尋ねるような目をして美久を見つめる。

「どうしたら君は黙って俺だけのものでいてくれるんだろうね?」
「な…なんで? 私は別に…」
「君は、ずっと俺から逃げる画策をしてるだろ? 俺が納得する何かを探してるんだろ?」
「そ…んなことないっ」

 いや、そんな余裕がない、という方が正しい。それに、積極的にそれを探求はしていない。いつでも成るように成ることを茫然と眺めているだけで、状況が動いて決定してくれるのを待っているだけで、自分からはほとんど求めたことなど、ない。

 いや、威張れることでは全然ないが。

「今まで調教してきた奴隷共のように、君も俺の奴隷に堕として食事も排泄も俺が管理してここで飼っておこうか?」

 独り言のような口調で、甘い笑顔で、これ以上ない冷酷な瞳で、さらりとそんなことを言ってのける。ざわりと美久の背筋に何かが走った。

「な…に、言ってるの?」

 声が震えた。

「怒ってないのか? 怒ってるよ、美久ちゃん。怒りでこの身体が爆発しそうなくらいにね」

 バリトンの声で、ささやきのように吐き出される言葉に、美久は青ざめて今度こそ言葉を失った。今まで、どうやってそれを押し殺していたのか疑問に感じるくらい、その空気が一変していた。その声は低く響いてまるで地の底から蛇の形をした冷気が立ち上るような感触だ。

「でも、そうだね。…今日のところは許してやるよ」

 まるでそんな風には思っていない射抜かれそうに強い光で、上から目線で言い渡され、美久はどう反応して良いのかまったく分からなかった。



下化衆生 (昏いもの、昏い闇) 26 

下化衆生 (R-18)

 翌日。買い物に出かけた遼一の帰りが何故あんなに遅かったのかが判明する。彼は警察署に戻って、犯人に対する手掛かりを聞いてきたらしい。お世話になった婦警にお礼に寄ったとき、それを聞かされた。

 犯人が誰か分かったりしたら。遼一が何をするのか分からない。
 美久は、相手が久志だと絶対に知られる訳にはいかないと思った。

 久志の身が心配なのではない。遼一に犯罪まがいのことに手を染めて欲しくなかった。絶対にそれだけは避けなければならない。

 昨夜、遼一に散々な目に遭わされたのに、美久はとにかくそれだけを強く思った。彼女にとって、遼一の存在はそれまでの年月の分、絶対の信頼があったのだろうか。少なくとも、久志より、彼の方が大事だった。
 久志と仕事のパートナーを外してもらおう。もう、彼とは関わらない部署に異動させてもらって、接点を消すしかない。

 しかし、そんなに上手くはいかなかった。もう少しで完成に漕ぎ付けるその企画を社としても成功させたかっただろうし、久志は、昨日の今日で、まるで悪びれなかった。むしろ、相手の弱みを握ったみたいな態度で馴れ馴れしい。

 早く、早く、このプロジェクトを終えて、次の企画に関わりたい。
 ほぼ、無言で美久は仕事に没頭する。そして、出来る限り営業を引き受け、細かな打ち合わせも積極的に出かけ、会社にいる時間を持たないようにした。

 しかし、それは思わぬ悲劇を彼女にもたらす。
 普段、事務職が多かった美久は、連日の営業外出ですっかり体力を消耗していたのだ。




 遼一と外で会おうと約束していた金曜日、美久は帰りがけに久志に捕まった。背後から近づいた彼に不意にそのとき使用されていなかった会議室に連れ込まれたのだ。背後から押さえ込まれ、手で口をふさがれ、貧血状態に近いくらい調子が悪かった彼女は、それだけでぐらりと視界が揺れ、充分な抵抗が出来なかった。

 奥の窓側の床に組み伏せられ、喉を締め上げるように押さえ込まれ、美久は苦しさに悲鳴もあげられない。声を張り上げようとすると、首を絞めている手に力を込められる。そして、片手で美久の服を脱がせていきながら、久志は暴れようとする美久の頬を張った。

「…ど…こまで…」

 どこまで卑劣なの? 最後まで言葉にならず、美久は痛みよりも恐怖よりも、怒りで彼を睨みつける。そして、美久がこの間のことを警察に言ったらおしまいだということが、どうして分からないのか、更に、こんな現場を見つかったらクビだけでは済まないことぐらい、彼が分からない訳がないことが不思議だった。

 久志の目は、すでにどこかオカシかった。まるで狂人のようなぎらぎらした異様な光方をしていたのだ。

 彼は、以前にも、何か女性関係で相当酷い目に遭ったのか、或いは母親との歪んだ愛憎があるのかも知れない、とこんな状況なのに、美久はそんなことを思っていた。

「こ…な、こと、して…っ、ゆ…るさな…」

 首を、気を失わない程度に締め付けている彼の腕を、必死に引き剥がそうともがきながら、驚くほど冷静に、美久は久志の目を見据えた。冷たい視線ではない、むしろ憐れむような蔑むような光を湛えて。

 その光を捉えた途端、びくりと彼の身体は硬直した。まるで打たれたように驚愕とでもいう目で、美久を見下ろした。その瞬間、美久を捕えていた腕の力が僅かに緩み、彼女は渾身の力で圧し掛かっていた男の身体を跳ね除けた。

 起き上がろうとした途端、美久は再び久志の腕に捕われたが、今度は美久はそこで咳き込みながらも悲鳴をあげた。その声はさすがに廊下にまで響いたようだ。

 何事かとやってきた社内の人間が目にした光景は…


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下化衆生 (調教という凶行) 27 

下化衆生 (R-18)

 医務室で休ませてもらった美久だったが、遼一との約束の時間を思い出し、なんとか帰り支度を始める。その後、久志が何を言って、どんな処分がくだされたのか、もう美久は知りたいと思わなかった。

 ただ、彼のあの狂った瞳の色だけが奇妙に心に残った。ぞっとしてながらも、何かを思い出しそうになった。何だろう? ひどく切なく悲しく…そして、これ以上ない憤り。

 しかし、時計を見た瞬間、美久は凍りつく。
 約束の時間が過ぎている!

 慌てて、携帯電話を確かめると、すでに何度か遼一から着信があった。マナーモードにしてあったので、気づかなかった。

 マズイ! ものすごくマズイ!
 美久は更に青くなってあたふたと医務室を後にした。

 会社のエントランスの受付ロビーまで出てきたとき、不意に、視界が歪んだ。倒れる! と思った瞬間、誰かの腕に抱きとめられた。背の高いらしい太くてがっしりとした腕。一瞬、真っ暗になった視界がようやく光を取り戻したとき、覗き込んでいた相手の顔が目に入った。

 直属ではないが、美久の上役に当たる上司だった。

「あ…、すみません、笹井部長…」

 彼の腕にすがったまま、美久はひどい眩暈に必死に意識を保とうとする。

「今井さん? 大分疲れているんじゃないの?」

 男性にしてはテノールのよく通る良い声だ。もう50代なのに、若々しくて紳士の彼は、女子社員に人気がある。美久も以前は秘かに憧れた相手だった。数年前に奥さんを亡くして、現在息子さんと二人暮らしだという。しかし、美久は彼に対してはそれほど熱い想いを抱かなかった。彼の態度が、万人に対して公平だったせいだろうか。

「すみません、大丈夫です、ありがとうございました」

 なんとか、彼の腕を離れて立ち、美久はまだふら付きながらもお礼を言った。こんなところを遼一に見られたら、それこそ、大変だ…と、思ってふと受付の向こうに視線をやって、彼女は今度こそ、凍りついた。

 そこには、遼一が立っていた。その瞳には、なんとも形容し難い奇妙な色が浮かび、その奥ではゆらりと青い炎が燃え上がっている。

 彼は受け付けの女性にお礼を述べて、そのまま美久を見つめ、にこりと微笑んだ。

「遅かったからどうしたのかと思って。携帯も繋がらなかったし」

 遼一の声に振り返った美久の上司は、「お友達?」と微笑み、相手に軽く会釈をして去っていった。遼一も丁寧にお辞儀を返し、微笑んだ。ぞくり、と美久は背筋が粟立った。

「ご…ごめんなさい、その…ちょっと気分が悪くなって、医務室で休んできたの…」
「そう」

 遼一は美久の腰をぐい、と抱いて引き寄せた。そして、耳元に低い声でささやく。

「仲良さそうだったね」
「ち…ちがっ…」

 慌てて彼を見上げると遼一は涼しい目をして美久を見下ろす。冷たくはない、どこか冷めたような視線だ。

「あの、あれは…私が貧血で倒れそうになったところを支えてもらっただけで…」
「貧血?」
「その、帰りがけにちょっと疲れて…」

 エントランスを出ると、遼一は通り掛ったタクシーを捕まえる。

「誰に襲われたのさ?」

 乗ろうとした瞬間、背後から低く声を掛けられた。ぎくりとして美久は彼を振り返る。そしてその怒りの炎の冷たさに震え上がった。

「…な、なに…」
「その首の跡」

 はっとして美久は両手で喉を隠した。隣に乗り込んだ遼一は運転手に行き先を告げた後、すうっと目を細めて美久を見つめる。

「なかなか毎日忙しそうだね」

 思わず顔が強張る。仕事のことではないことくらい分かっていたが、敢えて美久は誤魔化しの一手に出た。

「…あ、あの…そろそろ…落ち着く予定…かな」
「じゃあ、そろそろ仕事は区切りを付けられるんだね?」
「え、あ…あのっ、それは…っ」
「それは?」

 誤魔化しを逆手に取られ、美久は更に追い詰められる。

 遼一はただ静かに問い返しているだけだが、その威圧的な空気は美久の言葉を意味のないものとしてさらっていく。震える両手をそっと握り締めて、美久は息を吸い込んだ。これではダメだ、と美久は震える声で、それでも笑顔を必死に作ってみせる。虚勢でも、ないよりマシだ。

「あ、あの…やっと仕事らしいことが出来るようになってきて、面白くなってきたところなの」
「それで?」
「…それで、その…仕事、続けたいんだけど…」
「いつまで?」
「う、…ええと…」

 しどろもどろに困っている美久を遼一は、ふふん、という目で見下ろした。

「じゃ、それは認めるよ。まぁ、期限はあるけどね。その代わり、俺が聞いたことにもちゃんと答えて?」

 ごくり、と美久は唾を飲み込む。

「な…なに、を?」

 遼一はその場ではそれ以上の何も言わなかった。重い沈黙が流れた後、二人は予約してあったレストランの前でタクシーを下りる。

 建物の造りも玄関の広さも日本古来の独特な家屋で、日本料理店なんだと美久は思った。こんな近くに本格的な日本料理なんてあったのか、と。

「ここは、近くを通ったときにたまたま見つけてね、一度来てみたかったんだ」

 遼一は門を見上げて少し嬉しそうに言った。その穏やかな横顔を見ていると、美久もなんだか心がふわりと浮き立つ気がする。誰かが嬉しいと言っている顔を見るのが好きだと、そのとき美久は思った。

 扉を開けると、予約を確認され、奥の席へ通された。
 何もかも黒塗りの木で造られた雰囲気の良い店だった。木製のテーブルに木製の椅子。その上には心地良い座布団が敷かれ、ふと見上げると和紙が貼られた蛍光灯が吊られており、座席を区切る壁には障子が張られている。朱塗りの箸に、ひとつひとつが手作りであろうと思われる個性豊かな器たち。

「素敵…」

 思わず、美久の口から感嘆の声が漏れ、遼一はそれを見つめて、とびきりの甘い笑顔を浮かべた。その瞳の優しさに、美久の心臓はどきりとはねる。

 今までも、遼一はたまにこんな瞳で美久を見つめることがあった。そして、そういえば、その笑顔を向ける相手が自分だけだと気付かされることがあった。そうだ、思い出した。

「遼一って、どんだけ笑ってるように見えても、絶対目は笑わないよね」

 いつだったか、誰かにそんなことを言われたことがあった。大学時代のことだ。

「へ? そんなことないよ? たま~に、こっちが勘違いしてドキドキしそうなすっごく優しい笑い方するよ」
「ええ~? 見たことな~い」

 相手はそう言って顔をしかめた。あれ? とそのとき、ちょっと引っ掛かった。だって、相手はたまに遼一とホテルへ行ったり、デートしたりしている子だったのだから。付き合ってるんでしょ? と聞いても、彼女は「そんな感じじゃないよ? 遊んだら、はいおしまい、またね、って感じだし。遼一って、ヒトに執着しないんじゃない? さすがにまったく妬いてくれないとこっちも冷めちゃうよ」と言ってケラケラ笑っていた。

 すぐにその子は他に彼氏が出来て、美久とも話すことがなくなった。

 それから、そうだ、ゆりにも似たようなことを言われた。遼一って、相手を束縛しない代わり、自分も縛られたくないんだね、と。そして、どうして、いつも冷めた目をしてるんだろう? 本気で笑った顔って見たことない、と。

 あれ? でも私は遼一のこの表情、知ってるよ? 実際、この目で見つめられたら、絶対勘違いしそうな蕩ける視線。たまに目が合ったときに、そういう目を遼一はしていたし…。私がいつもアホなことばっかりやってるから、しょうがないなぁ、という目で見ているような感じで。

「あ、あの…遼一」
「うん?」

 運ばれてきた料理に箸をつけながら、遼一は顔をあげた。

「…ええと、こういう料理って、作れるの?」

 何を聞いて良いのか分からなくて、思わず美久はそんなことを言ってしまう。何もかも上品な味付けの見た目も美しい数々の料理。こんなの出来る訳ないじゃん、と聞いておきながら美久は思う。

「ご希望とあれば、挑戦してみるのも吝かではないけど?」
「え、えっ? 本当?」
「そっくりこのままは無理だけどね」

 美久はあんぐり口を開けたまま固まった。う、料理のレベルが違う。私が作れるのなんて、カレーとか肉じゃがとか、筑前煮とか…刻んで煮込んで終わりってやつだけなのに。

「それより、本当は何を聞きたかったのさ?」
「え、本当はなんて…う、ゴホッ」

 思わず、噛み砕く前にご飯が喉に入り込んでしまって、美久はむせる。

「仕事の期限?」

 グラスの水を差し出しながら、遼一はにやりとする。

「え…、ええと、ううん」

 ここで、きっぱりそれを言い渡されることは避けたい。出来れば忘れて欲しい話題だった。すう、と遼一の見透かすような視線に慌てて、美久は目の前の食事に集中しようと俯く。

「これ、美味しいね」

 絵に描いたような誤魔化し方に遼一は小さく息をついてくすりと笑った。その気配にふと顔をあげて、美久を見つめる瞳に、あ…、と思った。今の目、優しい…。

「君は見てると面白いね」
「へっ?」
「考えていることが手に取るようで安心するよ」

 …それ、絶対、褒めてないでしょう。
 っていうか、どんだけ失礼なの?
 美久の考えを読んだように、遼一はくくくっと喉の奥で笑った。

「今、君が考えた台詞、そっくりそのまま当ててみせようか?」
「けっこうです!」

 思わず、赤くなって美久はプイと横を向く。確かに彼は昔からものすごく勘が良くて、美久が思っていることをよく当てられていた。それは亨なんかよりずっと鋭くて、具合が悪いのに無理しているときも、強がっているときも見事に察して、さり気なく気を使ってくれていた。

 そうだ。遼一はそういう男だった。

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下化衆生 (調教という凶行) 28 

下化衆生 (R-18)

 だからっ
 どうせ、考えていることなんて当てられるくせに、どうして追いつめていたぶるのっ?

 と、その後、美久が心の中で叫ぶような事態に陥る。

 美味しく食事を済ませて大分回復したとはいえ、体調が悪かった美久を、その夜、そのまま都内のホテルに連れ込んで、遼一は何やら怪しくも恐ろしい道具を彼女に見せ付けた。

「これ、何のために使うか知ってる?」

 部屋を取ってあるから、とけっこう大きなホテルまでタクシーで向かい、フロントで鍵を受け取った遼一に、なんでアパートに帰らず、わざわざホテル? と思いつつも美久は彼に従う。

 そして、どうぞ、と先に扉の中へ案内された美久は、そこに広がっている異様な光景に絶句して立ちすくんだ。想像は出来るけど実際に見たことはない、という、美久には拷問の道具? としか映らない数々の鎖やら縄や首輪など。そんなものが部屋の床いっぱいに広げられ、テーブルの上には更に、想像すら出来ない訳の分からない小物、薬やローションのようなものが所狭しと置かれてある。

 ほとんど恐怖で身動きの取れない美久を背後から片手で抱き、遼一は微笑んでそれらを手に取ってみせる。

「聞かれたことに素直に答えられなかったら、ちょっと使ってみても良いんだけど?」

 目を塞ぎたいのに、何故か吸い寄せられるように美久はそれらの怪しい器具から目をそらせなかった。つるりと丸い玉の連なった細い紐や、おぞましい形をした物体。明らかに拘束具と思われる色とりどりの…

「待って、…やだ、遼一。何でも答えるから…っ」

 腕の中で本気で震える美久を乱暴に抱き寄せて、遼一は耳元にささやく。

「ああ、そう。じゃ、まずは…」

 何を聞かれるのかと身構えた美久に、彼は言った。

「脱いで?」
「…え?」
「服を脱いで、って言ったんだよ」

 ぞうっと全身に鳥肌が立った。どんな目をしているのか、怖くて振り返れない。これは…夢、じゃないの?

 食事を終えて、二人は更に別の店に寄った。小さなカウンター席だけの喫茶店。そこは、隠れ家的に静かで薄暗くて、でも、コーヒーの香りがくらりとするくらい良い店だった。コーヒー好きの遼一が好みそうな本格的な店だった。そこで、二人は恋人同士のように小さなケーキと一緒に仲良くコーヒーを飲んできたばかりだったのに。

 既に、この光景に理性が悲鳴を上げていて、もともと力でなんてまったくかなわないことは分かっているし、下手に逆らって相手の神経を逆撫ですることだけは避けた方が良い。

 それに。
 遼一は、きっと知っている。美久が必死に隠してきた何かを。或いはそのすべてを。

 覚悟を決めた、という美久の気配を感じ、遼一は不意に彼女の身体を解放した。そして、彼は一歩離れて壁際に立ち、腕を組んだ。そこで見学と言わんばかりに。

 美久は一瞬だけ縋るような視線を遼一に投げ、微動だにしない彼の表情に諦めの息をついた。

 沈黙が痛い。無音に耐えられなくなって、美久は震える指で上着のボタンを外し始めた。正直、貧血を起こしたことなんて忘れるくらい体調は良い気がした。ただ、精神的な緊張で心臓の鼓動も呼吸も不安定にはなっている。

 今さら、遼一の前で服を脱ぐことくらい平気だと思っていたのに、脱がされるんじゃなくて、自ら脱ぎ捨てるという行為にこんなに羞恥と躊躇いが生じるものだとは思っていなかった。しかも、この部屋の異様な光景とじっと見つめられている震えるほどの緊張感。

 遼一に背を向けようとすると、あの低い声で、命令口調で言い渡される。

「こっちを見て、美久ちゃん」
「…っ」

 逆らえる度胸はない。

 下着まですっかり外し、一糸まとわぬ姿になって、美久は所在なく立ちすくんだ。肌に触れる空気の感触に冷気を感じる。

「良いよ、じゃあベッドへ」

 にこりともせずに遼一は言った。

 一瞬、躊躇ったものの美久は遼一に背を向けて窓の下の壁際に寄せてあるダブルベッドへと歩を進め、そして、背後の気配にはっとして振り返ったときには何か布のようなものを頭に被せられて、もつれるようにベッドの上に組み伏せられていた。

「りょ…っ、ヤ…あぁっ」

 何も見えなくなって、美久は恐怖のあまり必死に両手足をバタつかせる。しかし、無言で彼はその抵抗をひとつひとつ潰していく。腕を縛り、足を縛り、最後に首に何かを巻かれた。そして耳元に金属のじゃらりという身も凍るような音が聞こえた。

 大の字にベッドの上に固定され、美久は悲鳴をあげる。

「遼一っ…ヤダ、やめて…っ」
「ウルサイよ、美久ちゃん。君は質問だけに答えて」

 その声の低さに、身体の方が勝手に反応して固まった。

 ぐい、と頭に被せられていた布が取り払われると、中世の頭のオカシナ貴族が使っていたようなムチを手にした遼一が怪しく微笑んでいた。

「そんな怖がらなくたって良いよ。言ったろ? 正直に質問に答えればこれらは使わない。ノーマルな方法で抱くだけだよ」

 そ…その、選択の余地のない、更に救いのない選択肢は何?

「イヤなの?」

 覗きこまれて、美久は慌てて首をぶんぶん振る。ここで、機嫌を損ねるようなことを言ってはいけない。相手が恐らく、美久の心の内など、すでに分かっていても、否定するしかない。

「ねぇ、美久ちゃん? 君が亨とまだ付き合っている頃に、浮気した相手がいたよね?」

 う…っ、浮気とは言わないよ、勝手にちょっとイイナと思ってただけだったし。あのときは絶対に単に同僚に過ぎなかったんだから…っ

 美久の心の反論には気付かない振りをして、遼一は続ける。

「この間、会社帰りに襲われた相手。それから、今日。」

 遼一の声はどんどん不穏に低くなっていく。

「それって、全部、同じ相手だよね?」

 美久は一気にすべてを言い当てられて絶句するしかない。こんなに簡単にここまで辿り着かれるとは、正直、思っていなかった。そして、こんな無防備な状態でそれを指摘されることも予想の範疇にはないことで、美久は完全に言葉を失った。

「yesかnoで良いよ。答えて?」
「…う、あの…」
「どっち?」
「…はい」

 瞬間、空気に亀裂が入った、ような気がした。明らかに彼を取り巻く空気の層が変わった。

「美久ちゃん? 俺を裏切らないでって、って警告しておいたよね?」
「裏切る…て、裏切ってなんかいないよっ」
「裏切りだよ」

 すう、と遼一の手の中のムチの先が胸の谷間を下から這いずりあがり、顎の下にぴたりと静止する。

「君は、俺に嘘を吐いた。そうだね、少なくとも三度」

 三度? いや、回数なんかこの際どうでも良い。美久は初めて恐怖に震えた。ヒトは恐ろしいとき、本当に身体が震えるのだ。それを当たり前のように今さら感じた。いや、思い知らされた。

「ご…ごめんなさい」
「謝れば何でも許されると思ってる?」
「…ごめんなさい」

 他にどうしろと言うのだろう? 謝るしかないではないか。思考は停止状態だし、この状況で逃げ出す選択肢なんてある筈ないし、気を失ったって、彼は許しはしないだろう。

「美久ちゃん、君、開発すればけっこう良い線いくかもね。一度全身縛られて穴という穴にバイブを突っ込まれて、だらしなく涎を垂れ流しながらイってみるってどう? 或いは、一番敏感な部分にマックスの強刺激与えてイカせてあげようか? 病み付きになって、昼間から俺にねだるようになるかも知れないよ。」

 くくく、と喉の奥で低く笑う遼一の目は、狂気よりも、むしろ怒りの炎が静かに揺れていた。
 知らない、こんな遼一。これは、遼一じゃ、ない。
 こんな…、こんな…

「一度は思いを寄せた相手だもんね。もしかして、今でも未練があるの? そいつに抱かれたいの? 俺の目を盗んで逢引きしてきたのかな?」

 必死に声を絞り出そうとしているのに、掠れた吐息が漏れるだけだった。違う、違う、と首を振り続けても、遼一の瞳の色は変わらなかった。疑いの、青い炎。揺らめく憎悪。

「そいつにどうされたって?」
「…ゆ、るし…」

 喘ぐように美久は彼を見上げた。

「そいつにどうして欲しかったんだい? 美久ちゃん」
「ち…がうっ」
「それは聞き飽きたよ」

 遼一は、ムチを振り上げて、空気がひゅっと音を立てた。美久は思わず目をぎゅっと閉じた。そして、やがて来る痛みに顔をしかめたが、それはいつまでもやって来なくて、そうっと目を開けると、遼一の顔がすぐ近くにあって、ぎょっとした。

「君は、ちょっとでも目を離すとすぐに男を欲しがって始末に負えないね」
「…ひど…っ」

 あまりの言い草に美久は抗議の意を露わに目を見開いた。

「そ…んな言い方…」
「異議でもあるの?」

 美久の目には涙があふれてきた。侮辱が悔しかったのか? 謂れのない非難に憤ったのか分からない。しかし、喉の奥に熱い苦しいものが溢れてきて、美久の目頭の奥を熱く焦がした。

 久志のことを好きだと思った瞬間など恐らく一瞬に過ぎなかった。
 そして、彼に二度も襲われかけたのも事実だ。

 だけど、それだけだ。非があるとしたら、それを遼一に正直に告げなかったことだが、それは彼を庇った訳ではない。…ない、筈だ。少なくとも、遼一と久志を比べることなんて出来ない。それ以前の問題、それ以前の関係なのだ。

「りょ…いち…」

 思わず呼びかけてしまった。許しを請うため? 誤解を解きたかった? 罵りたかった? 分からない。だけど、遼一は、涙を零す美久を黙って見下ろした後、おもむろにその口をふさぎ、そして、その身体を貪った。

 手足を縛られていて、一切身体での抵抗は出来ずに、泣き叫べば煽るだけだと必死に堪えながらも、美久は愛されているよりは暴力に近いその行為を、どれだけの時間耐えていたのかすでにもう分からない。

 何度もイって、何度も失神して、避妊はしないと宣言していた彼に、何度精液を胎内に注ぎ込まれたのかも。もう、声もかすれて叫ぶことすら出来なくなって、…次に気がついたときは、すでに翌日の昼前だった。
 


下化衆生 (調教という凶行) 29 

下化衆生 (R-18)

 目を開けて、美久はすでに遼一が着替えて部屋に備え付けのパソコンに向かっている背中をぼんやり見つめた。あまりの身体のだるさに声もなく、身体を起こそうとする気力もなかった。

 部屋の中はすでに片付けられていて、美久を縛った鎖も紐も跡形もなく、あれは夢だったのではないかとすら思えた。いや、思いたかった。キーボードを叩く単調で軽い音が響き、美久はその明るい静かな空間に、その穏やかな空気に、このまま時間が止まってくれれば良いとほんの少し祈ってみた。

「昼までは延長したけど、…連泊する?」

 不意に、遼一が振り返って言った。

「…え」

 ほとんど声になっていない。そして、目覚めたことを彼が気付いていると思わなくて、美久はただただ驚いた。

「起きて、帰れる?」

 遼一は穏やかな表情をしていた。気が済んだのか、何かを納得出来たのか美久には分からなかったが、とりあえず彼女はほっとする。

 身体を起こそうとすると、かなりだるいが、なんとか起き上がることは出来た。そして、「何か食べる?」と聞いてきた遼一の声に、少し空腹を感じて頷く。

「サンドイッチとかサラダとか…頼んだら持ってきてくれるみたいだよ」
「…なんでも…」

 声が出ているのか怪しかったが、遼一はふっと笑みを浮かべた。昼間の光の中で見る彼の笑顔は神々しいほど綺麗だ。昨夜の修羅の目をした男と同一人物とは思えない。

 そして、結局は逃げようとする訳でも誰かに助けを求めようと考える訳でもなく、こうやって良いように翻弄されている現状に、美久は大きなため息をついた。だけど、大きく息を吐き出しながらも、それを違和感なく受け入れてしまっている現実に茫然となる。諦めなのか? それとも何かを期待、いや、祈りのように望むものがあるのか…。

 そんなバカな…と思うのに、はい、と水の入ったグラスを差し出され、遼一がこうやって優しくしてくれると、ふっと緊張が解けてこの空間に身を委ねてしまう。無防備に、また縛られるような事態を自ら招き寄せている気がしてならない。

「美久ちゃん」

 はっと気付くと、飲み干した空のグラスをすっと取り上げて、遼一は片手にグラスを握ったまま美久の背に手をまわし、その顔を覗き込んでいた。

「二度目はないからね。もう、俺を怒らせるような真似はしない方が良いよ」

 にこりと、遼一は言った。遼一の手は温かかったのに、ぞくりと背筋に冷たいものが走る。その瞳には狂気の光はなかった。だけど美久は咄嗟に彼の腕から逃れようともがいた。身体の反射的な防御反応だった。
しかし、せっかく必死に身体を起こしたのに、あっという間に押し倒されて、口を塞がれ、美久は必死に彼の身体を押し戻そうと腕を突っ張る。

「ぅんんんっ、ん…っ」

 それほど深追いせずに、遼一は弱々しく暴れる美久の腕を軽く捕えて笑った。

「まだ抵抗する力はあるんだ」
「あ…あの…っ」

 だからって、もうこれ以上のセックスには耐えられないからねっ
 と涙目で訴える美久を冷然と見下ろし、ふふん、と遼一はイヤな笑みを浮かべる。

「それは君次第だよ、美久ちゃん」
「…そっ」
「俺をその気にさせないように、良い子にしてな」

 言葉を失って、美久はとにかく素直に頷いた。逆らってはいけない。特に、今は、これ以上抱かれたら壊れてしまう…。心臓の鼓動が激しくて、相手に聞こえたんじゃないかと思う。それでも、そんなこと、遼一にはお見通しなんだろう。

 不意に柔らかく髪を撫でられ、美久はその気まぐれさについていけないと思うのに、優しくされると心がざわめく。本当の遼一の姿を探そうと目を凝らしてしまう。美久が知っていた‘彼’が、どこにいるのかと。
 


下化衆生 (再会、見合い、SM) 30  

下化衆生 (R-18)

 翌日、不意に亨から飲み会の誘いの連絡が入った。
 遼一の部屋でそれを受けた美久は、同じように連絡の入った彼をちょっと上目遣いで見つめる。

「行くの?」

 と、聞かれて美久はほんの少し怯えた。

「う…あの、飲み過ぎないようにします」
「ああ、そう」

 遼一の嫌味な笑みに、美久は身を竦めた。確かに大きなことを言えたギリではない。前回の醜態は全面的に彼女に非があって、遼一には迷惑を掛けたのだ。

「菜月が来るんだって?」
「あ…そ、うなの?」

 ちょっと心臓がちくりとした。どうしよう? まだ、どこかで気にしているのだろうか?

「まぁ、話してみるんだね」

 遼一に言われ、美久は頷いた。

「うん。私も菜月とは、ずっと友達でいたかったもん」




「もう、一緒に住んでるの?」

 亨の呆れたような声に、美久は真っ赤になって慌てて否定する。

「な…何言ってるの! 違うよ! …その、今はたまたま…」
「たまたまねえ」

 こういう席に真っ先に到着するのは大抵亨で、美久と遼一が店に着いたとき、亨はもう奥の席でビールを飲み始めていた。

「今日は、あと誰が来るの?」

 遼一は二人の会話にはまったく関知せずに、亨の向かいに腰を下ろしてメニューを見る。

「菜月が来れるって言ってたし、宮川と…大輔かな。あ、あと残業がなかったら菊ちゃんと」

 美久は、普通に話し始める二人を交互に見て、どこに座って良いのか迷っていた。それまで、意識したことなんてなかったのに、皆の前で遼一のそばに座るのがなんとなく気恥ずかしかった。

「何、突っ立ってんの? 美久ちゃん。遼一の隣に座りなよ」

 美久の心の内を読んだように、亨はにやにやして強引に美久を座らせる。

「別に気にすることないって。だいたい、もうみんな知ってるから」
「…は? 何を?」
「君たちが付き合ってるって」
「…な、ななな、なんで?」
「僕が教えたから」
「なっ! …なんで、そんなこと…っ!」
「だって、おもしろかったし」

 美久と亨の会話には相変わらず関心を示さず、遼一は店の人を呼んで、適当にオーダーを始める。

「美久ちゃんは、今日は本気でほどほどにしてね」

 ビールを注文しながら、遼一は美久をちらりと見る。その一瞥に命令的なものを感じて、美久は、小さな声で「はい」と頷く。

「この間、大変だったもんね。どうしたの、あのあと?」
「吐いて寝てたよ」
「やっぱりね。どう見たって飲みすぎだよ、あれ」
「止めてくれれば良いのに」
「いや、どうせ、遼一に引き渡すから良いかな、と思って」

 男二人の勝手な会話に美久はかあっと赤くなる。

「な…っ、なんでそうなるのよ。引き渡す…って、私は商品じゃ…っ」
「っていうか、美久ちゃん、あの状況で君が酔いつぶれたら、僕が遼一を呼ぶのは分かってたでしょ」
「そんなこと、分かる訳ないじゃんっ」

 叫ぶ美久を、ふうん、と亨と遼一が意味ありげに頷いて見つめる。

「まぁ、今後は覚悟しておくんだね」

 遼一の言葉に、美久は笑顔が凍りついた。


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